文字は、記載のないものは、ナレーションのものです。
どうしても聞き取れなかった部分はクエスチョンマークにしています。
(〜〜〜)は私・ごいち主観による画像の説明。
※ごいち注が時々入ります。
*9月16日にフジテレビで放送予定になっている【置きざりにされた怒り〜拉致被害家族の24年間〜(仮)】が、
全国に先駆けて、福井テレビ(製作局のある地域限定)「その声は届かず〜拉致家族の奪われた24年」
として放送されたものです。タイトルは違いますが同一です。
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北朝鮮に拉致され、帰国を果たした地村保志さんと妻の富貴恵さんは、
今新たな人生を歩み始めています。3人の子供を北朝鮮に残したままの帰国。
地村夫妻は、奪われた24年の歳月についてほとんど語ろうとしません。
待つことの辛さと苦しさ。
二人の肉親もまた、同じ苦しみを味わい、こう叫び続けてきました。
・浜本雄幸さん(以下・雄)::「ふ〜きえ〜」 (船の上から叫ぶ)
しかし、血を絞るようなその声を受け止める人は、あまりにも少なかったのです。
・地村保さん(以下・保)::「頼りいいところはないなあ思ってホンマ情けなかったわ」
拉致という許すことのできない国家犯罪は、
なぜ24年間も放置されてきたのでしょうか。
拉致被害者の父と兄が見つめてきた、この国の矛盾と幻想を追います。
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(タイトルズーム・「その声は届かず〜拉致家族の奪われた24年」)
福井県小浜市に住む地村保さん76歳。
自宅の敷地内に立つ古い離れを、24年の間封印してきました。
(その離れの家を案内し、ワードローブを開ける保さん)
・保::「これは、出たときのそのままや。ほれ、このままや。
これを好きで、行くまでは、このシャツをよ〜ぉ着とったのを、
わしゃ覚えとんのやけど。。」
この部屋を使っていたのは「やっちゃん」こと次男の保志さんです。
(昔の、保志さんの写真を取り出しながら。。)
・保::「なんせ、かぁちゃん子やったんで、かぁちゃんの手伝いや。
学校のカバンを畦に放り投げて、かぁちゃんの手伝いをしとったんや。」
保志さんは昭和30年生まれ。やんちゃな子で、小学校時代は野球のエースでした。
・保::「空白の間、手もつけず掃除もせんとそのままを残して、
お前に見せたかったんや、と。
んで、帰ってくるまでは手をいれんっていう父ちゃんの思いが。。」
1978年7月7日。保志さんはデートすると言い残して出かけました。
相手は浜本富貴恵さん。2人は4ヵ月後に結婚する予定でした。
ところが、その夜から二人の消息はぷつりと途絶えてしまったのです。
そして、北朝鮮の国家犯罪との長い戦いが始まりました。
地村さん宅から東へ五キロほど離れた小浜公園展望台。
事件発生から3日後、ここで、地村さんが乗っていた軽トラックが発見されました。
小浜警察署は直ちに機動隊を出動させ、大掛かりな山狩りを行いましたが、
手がかりは見つかりませんでした。
当時、捜査の陣頭指揮を執った、木崎治郎さんは事件をこう振り返ります。
・木崎治郎さん(以下・木)::「掴んでたぁいうのは、2人が行方不明、
いうことだけですわ。正直言うて、これだけ一所懸命調べたけれども、
お二人を見つけることができない。
何か不可解な、ま、何かの事件に巻き込まれたのではなかろうか、
ということぐらいですね」
一方、鑑識主任だった津田正さんは不自然な点が多かったことを覚えています。
・津田正さん(以下・津)::「ドアもカギがかかっておりませんし、
どっちだったか忘れましたが、ドアのガラスが10センチほど開いていた、と」
また、軽トラックはキーがついたままで、保志さんの運転免許証なども
残っていたのですが、謎の失踪事件として捜査は事実上打ち切られたのです。
福井県敦賀市から京都府舞鶴までつながる小浜湾。
およそ100キロにも及ぶ海岸線を、保さんは自力でしらみつぶしに調べました。
・保::「もー、事故や思った。事故や思って敦賀から、舞鶴から敦賀まで海岸線を
ず〜〜〜っと探して、車を見かけてしまえんか?尋ねて歩いて。。。」
浜本富貴恵さんの兄・雄幸さんは、民宿とフグの養殖場を営んでいます。
富貴恵さんと26歳年が離れた雄幸さんは、
兄であると同時に父親代わりでもありました。
・雄::「男ばっかりの中に女の子が一人居るっちゅうと、やっぱ可愛かった、と。。
ま、そういう、なんやな〜、可愛かったな〜と。」
富貴恵さんが突然姿を消した夜に感じた胸騒ぎを、
雄幸さんは今も生々しく覚えています。
・雄::「これはもう何か事件が起こったな、と。今までの何から言えばやね、
当然のことながら連絡のあるべき、そのなんや、状態なんや。
私は、さー、しもた、と。こりゃなんか事件が起こったな、と。
第六感はそれでした。
(ダンボールから、雄幸さんが多くの日記を取り出す)
雄幸さんは、若い頃からこまめに日記をつけています。
・雄::「ま、ちょっと気のついたことを、ちょっと書いてある。
そんなんがこうやって、なんやボール箱にいっぱいあるわけやけども。。」
事件の起きた夜以来24年間、
ほとんど妹の富貴恵さんのことばかりが綴られてきた日記。
雄幸さんは何度も警察に足を運び、徹底捜査を訴えていたことがわかります。
(日記には、小浜署へ行く、の文が)
・雄::「一日一日が、何か手がかりになることがございませんか、
言うて訪ねて行くんやけんども、
なんもそんなん証拠ないやないか〜、っちゅうてな、叱られて終わりやったんや。
一般??の人は、夜逃げしたんやろう、と。どっか雲隠れや、っちゅうことでね。
ほんで警察自体でも、今に2,3ヶ月もすれば2人で手ぇつないで帰ってくるわ、
そんなん放っとけ、って。そんな考え方のような感じでしたね。。」
雄幸さんは、県内の寺や神社にも足を運んでいます。
小浜市内にある尼寺・長福寺もその一つでした。
住職の山本義道(ギドウ)さんは、雄幸さんの幼なじみでした。
・山本義道さん::「んー、どうしても見つからんし、
お観音さんに何とか見つかるように祈ってもらえんか、いう感じで来られたですよ。
そりゃー、痩せてほんとにほんとーに、あの頃は辛そうでした。
見るに見かねた山本さんは、ある短歌を雄幸さんに贈りました。
(山本さん、歌の文句を書くシーン。
『立ちわかれ いなばの山の 峰におふる まつとしきかば今 かへりこむ』)
平安時代の歌人、在原行平が詠んだこの歌は、
ふるさとを遠く離れてもいつか必ず帰る、という思いが込められています。
(その歌が書かれた札が、雄幸さんの家の窓際に下げられている)
・雄::立ちわかれ〜〜〜・・・・・(以下詠む)
こうやって朝晩祈りを捧げたし、祈っとった。
して、どうか無事に一つ、平穏に生きていて帰ってきて欲しい、と。
なんや頭の中それだけしか考えとらなかったもんな、当時は。
オッサンどないしたらええんやろか、わしゃ頭、気が狂いそうや。
なにか一つ助けてほしい。神だのみっちゅうんかな。。
なんちゅうか、ま、そういう心境やったね。」
忽然と姿を消してしまった保志さんと富貴恵さん。
当てもなく行方を捜していた父と兄に、ある日真相に迫る情報がもたらされました。
それは残酷な知らせでした。
(地村保さん、物の奥からなにか用紙を取り出す)
・保::「これやわ、これ。。」
地村さんは一枚の署名用紙を今でも大切に保管しています。
・保::「あんまり警察が動いてくれんのなら、
警察がやってくれるように署名活動する、言うて、かかったんがこれ。
これが最初やったんや。」
地村さんが署名活動を決意したのは、事件から半年後。
警察署に持ち込んで陳情する計画でした。
・保::「もー、あの、こんなことしたかて、お前らの立場が悪くなるばっかやぞ。
いうて、警察の我が署のメンツに関わる言うて絶対せんな!いうて叱られたんやわ。
枚数では4千枚作ったんや。」
・インタビュア::「警察に止められなかったら?」
・保::「出しとったと思うよ。」
結局、20人ほどの署名を集めたところで、中止せざるを得ませんでした。
・保::「頼るところは、わしら警察しか頼むところがないもんやから、もー、
警察さえ動いてくれたらこんな24年もかからなんだとわしは思うんやけど。。」
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事件から1年半が過ぎた1980年1月。
産経新聞は一面トップに衝撃的なニュースを載せました。
それは、福井、新潟、鹿児島の海岸で三組のアベックが蒸発する事件があり、
いずれも外国の情報機関が関与している可能性が高いという内容でした。
スクープ記事を書いた阿部記者はこう証言します。
・阿部雅美記者(以下・阿)::「当時事件記者をやっている時に、
東京で警察関係者から、『日本海のほうで奇妙なことが起きている』という、
一言だけ聞きました。」
阿部記者はまず、富山県高岡市で起きたアベック誘拐未遂事件を取材。
遺留品などから外国の関与をかぎつけると、
更に新潟、鹿児島、そして福井に足を運び取材を重ねました。
すると、全てのデータが一定方向を示し始めたのです。
・阿::「一定方向ってのは何か。北朝鮮なんですよ。一言????ば、
だからだんだんそうなってきた時は、それはあちこち震えがきましたね。」
しかし、紙面にはどこにも北朝鮮の文字はありません。
・阿::「もちろん、この情報機関ってのは北朝鮮だと思って書いてます。
日本のマスコミ報道ってのは、北に対しては非常にあの、ま遠慮っぽいって言うか、
報道でずっと来てるんですよ。
そういう流れの影響で自己規制というか、制約っていうかあったことは事実ですね。
それはあったと思います。それは日本社会全般にあったんですから。
平和ボケの日本に警鐘を鳴らした阿部記者の記事。
しかし、証拠主義をとる日本の警察は解決へと動きませんでした。
一方、その当時から海上保安庁は、
北朝鮮の工作船につながるある情報を掴んでいました。
・澤崎勢一さん(以下・澤)::「月1回か2回は、
そんな情報は入ることはあったですけどね。
そのときには、もう即巡視船が出て、敦賀保安部の海域に警戒にあたるわけですわ。」
第八管区海上保安本部の巡視艇の船長だった澤崎勢一さんは、こう証言します。
・澤::「当時はそんな、拉致なんていうことが、我々もあんまり考えてもみない。
ただむこうだと、食いはぐれるから日本へ密入国するんだ、という程度でね。
ま、今考えると拉致も、当時も今のような状態やと、
もっと捜索方法も変わっとったかもしれないですね。
陸上警察との連携をもっと緻密にやれたはずですよ。」
(画面、書類にズーム)
これは、海上保安庁が日本海などで確認した不審船のデータ。
その数は、昭和38年の山形沖のケースから始まり合計21隻にものぼっています。
しかも昭和50年代には、
小浜市に近い京都府経ヶ岬沖で3隻が確認されていたのです。
経ヶ岬は、地村さんたちが拉致された小浜市とはわずか60キロしか離れていません。
海上保安庁の掴んでいたこの情報を、警察は知っていたのでしょうか?
(木崎治郎さんに書類が渡される)
インタビュア::「ちょっと見ていただきたいんですけど。
これは海上保安庁が発表したんですよね?
木崎さんの当時署長時代に、こういった情報はご存知でした?」
・木::「いや〜。。知りませんね。警備課長やと、もし知ってれば、
こんなことありますってことぐらいは報告してくれるか、
また色んな雑談的に出るかもしれませんけど、そういう話は聞かなかったですね。。」
不自然すぎる行方不明事件と、忍び寄る北朝鮮の工作船。
縦割り行政の弊害が、その二つを結びつけることを妨げていたのです。
警察庁とならび、拉致事件の重要なカギを握る公安調査庁。
機密情報を調べ、内閣に報告する機関です。
公安調査庁で、北朝鮮担当部長を務めた菅沼光弘さんを訪ねました。
・菅沼光弘さん(以下・菅)::「ありましたよ。。これは今言ったように、
アベック失踪3件起こりましたよね?同じ77年。7月。」
・インタビュア::「これ、いつの資料?」
・菅::「これはそのすぐあとに資料ですよ。これは。」
・イン::「当時の?」 菅::「当時の。内部資料ですよ、これ」
・イン::「内部資料。。。」 ・菅::「内部資料です」
公安調査庁は、連続する失踪事件は北朝鮮による拉致の可能性が高いと考えていた
と言います。
・イン::「公安調査庁とか国のある程度の機関は知ってて、
各県警は知らなかったってことになる。。」
・菅::「ライバルですから!!競合してますでしょ。あらゆる問題が、
警察と公安調査庁との間で情報交換されるわけではないのであって。」
更に菅沼さんは、こう指摘します。
・菅::「例えば、その外国人犯罪とか、これ(拉致事件)も一つのそうですね。
こういった問題になりますと、例えば警察なんかのシステムっていうのは、
もっともっと中央の直轄の元で統一的な警察が必要なんじゃないの、と。」
動かない警察。マスコミ。
そんな中、地村さんはこんな戦いを続けていました。
(地村さんの家の中。と志子さんに保志さんの写真を見せている)
妻のと志子さんが心労による脳梗塞で倒れたのは、
保志さんが拉致されてから3ヵ月後。
重い言語障害が残ったと志子さんは、それでも息子の名前を呼び続けました。
(保さんはと志子さんに、死ぬまでに一目会いたいよな、と語りかける)
仕事と家事、そしてと志子さんの介護に終われる日々が、
地村さんに重くのしかかっていました。
(『早く会いたい。。』と、と志子さんは保志さんの写真を泣きながらなでる)
拉致という国家犯罪の陰を掴みながら、何もできなかったこの国。
事態が動き出すまで、長い空白の時間が過ぎていきました。
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1987年11月。北朝鮮による大韓航空機爆破テロ事件が発生。
韓国当局はキムヒョンヒ(金賢姫)工作員を逮捕。ソウルへ連行しました。
そのキムヒョンヒ工作員の口から、衝撃的な事実が飛び出しました。
(会見シーン)
・キムヒョンヒ::「リ・ウネという女性は日本から来た日本女性です。
彼女は78年に北朝鮮によって拉致されて、北に来て私を教育したんですけど。。」
金賢姫工作員は、日本人に成りすます為に日本語などの教育を受けていましたが、
その先生は拉致された日本人だったと証言したのです。
この証言から2ヵ月後、梶山静六・国家公安委員長 は、
一連のアベック行方不明事件は北朝鮮による拉致の疑いが濃厚である、
と認めざるを得ませんでした。
・雄::「キムヒョンヒ証言やな〜、それがもう一大転換期やわな。
もうそれで、政府自体でもね、はっきりとその、
これは北朝鮮の拉致っちゅうことをやね、
政府自体がやね、それをはっきり認めたんやから。梶山長官が認めたんやから!」
これで何かが動き出す。拉致被害者の家族の期待が高まりました。
折りしも、初めての日朝交渉に向けて政治が動こうとしていたからです。
90年9月、日朝交渉の開始に先立って、
自民党金丸信・元幹事長と、社会党田辺誠・副委員長が平壌を訪問しました。
(3党共同調印シーン。)
四日間の会談のあと、共同宣言に調印。
北朝鮮に対して、戦時賠償を約束したにもかかわらず、
拉致問題は一言も触れられていなかったのです。
・雄::「これから何かいい話でもつけてくれるんかと思ったけどな、
一向に何も話起こらん。
まるでむこうに、みな北朝鮮に丸め込まれてやな、スゴスゴと帰ってくる。
なんの拉致の話もなかった。
梶山発言がありながらやね、何も動きがないというのは。。。
そこで私はおおいに疑問が、湧いてくるわけやけど。。
政府って言うよりも、政治家と北朝鮮に何かがあるんかな、何かがあるんかな、
なぜこれがもっと進展しないのかな、と」
・保::「行くときはやな〜立派なこと言うてくれて、
ほんでわしらは期待するんにゃけど、帰ってくるともうコロッと態度が変わって。
もー、訪朝団で行ったら、必ず帰ってくるときは北朝鮮や、と。
わしゃ、そう思とるんや。
ほやで、腹立ってかなわんのや。」
(日朝交渉シーン91〜92年)
日朝交渉はその後の二年間で8回行われています。
日本側は、キムヒョンヒ工作員の教育係が田口八重子さんであると突き止め
追及しますが、北朝鮮側は激しく反発。ついに交渉は決裂します。
金丸・田辺訪朝団の一員を務め、日朝交渉の舞台裏に詳しい石井一議員は、
当時の状況をこう説明します。
・石井一衆院議員(以下・石)::「何をそんなことを言ってるんだ、と。
証拠も何もないのに。そんな事実はあるはずがない。それを繰り返ししている。
それから交渉は進まなかった、と。こういうことなんですから。
決裂しちゃったら、もうおしまいなんですよね。
断絶している国との交渉っちゅうのは。
だからそれは、少しは遠慮しながらつないでいこうとするでしょ?
それじゃむこうはね、戦前に日本の人はわが国の人間をどれだけ虐殺して、
どれだけの財産を持っていったんかっちゅうことも言いますよ。
人権をどれだけ侵害したのか、と。
日本の鉱山で、日本のどこどこで、わが国の民族に対してどれだけの仕打ちを
過去やったのか、と。あなた達そういうことを反省せずして、何だ!
とこう言うんですよ。
これに対して、中々反論がしにくくなるんですよね。」
(金日成の無意味にデカイ像のアップ)
日本人は戦争の贖罪意識に囚われているから、そこを突けば黙る。
これが、故・金日成主席の外交戦略でした。
・石::「国交正常化をせずして拉致問題を交渉することになってくると、
テポドン突いたところで弱いんですよ。
それから、拉致がなかったら国交正常化がないなんて言ったら、
永遠にその問題は解決しないんじゃないか。」
※〔ごいち注・『拉致がなかったら』という部分は、
拉致問題が交渉時の俎上・話題にあがる等「拉致問題解決がなかったら」の意か?〕
もし国交回復と戦時賠償を果たしたら、
拉致被害者が帰ってくる保障はあるのでしょうか?
その答えを政府から聞くことは、未だにありません。
空しく過ぎていく歳月。仕事の合間に雄幸さんの胸に何度も浮かんできたのは、
北朝鮮に連れ去られた妹の顔でした。
(富貴恵〜〜、と海に向かって叫ぶ雄幸さん)
雄幸さんは、北の海に向かって、自ら作った漢詩を何度も詠ってきました。
(雄幸さん、以下の歌を詠む)
悲憤慷慨在極限(悲憤慷慨極限にあり)
風聞無声悲松風(風聞声無く松風悲し)
波濤絶叫消波間(波濤絶叫は波間に消ゆる)
祈天誅加護安息(天誅加護安息を祈る)
極限に達した憤りと悲しみ。
待ち続けた家族達は動き始めました。この国を変えるために。
(結成会見シーン)
1997年3月。北朝鮮による拉致被害者家族連絡会が結成されました。
(横田滋さん、結成時の言葉)
「私達の息子や娘を返してください」
これまで孤立無援の戦いを続けてきた拉致被害者8人の家族が結集したのです。
77年に新潟で拉致された横田めぐみさん。
鹿児島で拉致された増元るみ子さんと市川修一さん。
地村保志さんと浜本富貴恵さん。
当時、中央大学の学生だった蓮池薫さん。
宮崎県の海岸から連れ出された原敕晁さん。
そして、有本恵子さん。
留学先のヨーロッパで、有本さんを言葉巧みに誘い出したのは、
よど号ハイジャック犯を支持する日本人でした。
家族会が結成されたこの日のことを、浜本さんは日記にこう記しています。
『記者会見。100社に近い記者、カメラ。
この会見は相当な効果があったものと思う』
拉致事件と被害者の救出を訴える集会には、大勢の聴衆が詰め掛けました。
(1998年6月の小浜の集会シーン。満員の会場)
一人一人の力は小さくとも、家族会の声がかき消されることはなかったのです。
(署名を集めに歩いて回る地村さんの様子)
拉致家族を支援する輪が次第に広がり、
最初の一年間で、全国から100万人以上の署名が集まりました。
ところがその声は、肝心な国会には届いていなかったのです。
署名活動が始まって3年経った2000年。
家族会は全ての国会議員に対してアンケートを行いました。
ところが国会議員750人の内、回答したのはわずか116人。
残る85パーセントの議員は、家族会の叫びを黙殺したのです。
・雄::「これはいったいどういうことなんだ、と。
全然この拉致問題ってのが、頭に関心が無い。
これじゃ助けてもらえるはずが無いやないかと。」
22年間の怒りが一気によみがえってきました。
・雄::「だから私はいつも言っとったんや。この事件の、なにしたときにやね、
もっと私らを追及するよりも、取材するよりも、私らの家族を取材するよりも、
その政治家のその当時の各党党首、幹事長。
そういう人たちが何をしとったんか、いうことを取材してくれたらええんや、
そりゃわかるやろ」
(小浜公園展望台に立ち、海を眺める地村保さん)
・保::「???眺望、言うんかな。向こう見りゃ北朝鮮やし。
わしは息子らは北朝鮮に居るいう事を、もう確信しとるんでね」
※[ごいち注・??部分、ミヤザ、と聞こえたのですが不明]
この頃地村さんは、残された時間が少ないことを感じていました。
共に戦ってきた妻のと志子さんの体力が、日に日に衰え始めていたのです。
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(巡視船から撮った銃撃戦シーン)
2001年12月、第十管区海上保安本部の巡視船は、不審船と銃撃戦を展開。
翌年、奄美大島沖の海底から不審船を引き上げて検証した結果、
北朝鮮の工作船であることを断定しました。
北朝鮮への拉致疑惑は限り無く濃厚になったのです。
この年(2002年)、もうひとつ重大な出来事があったと、
「救う会」の西岡さんは言います。
・西岡力さん::「八尾恵さんていう、拉致実行犯の一人が日本の法廷で、
自分が有本恵子さんを拉致しましたと証言をして(2002年3月)、
そしてやっとマスコミも国会も疑わしいという姿勢を捨てて、
事実であるから解決すべきだと、いうことになったんで。
それ以前は半分ぐらいは疑わしい、と。」
ロンドンで有本恵子さんを拉致した八尾恵氏が、
自らの犯罪を認め有本さんの両親に謝罪したのです。
1970年に起きた、よど号ハイジャック事件。
その犯人グループのシンパだった八尾氏は、北朝鮮で洗脳教育も受けています。
八尾氏は、拉致に加担した自分をこう批判しています。
『私が、北朝鮮やよど号グループに抱いていた思いは、幻想に過ぎなかったのです』
※文藝春秋社『謝罪します』
(2002年4月)
拉致事件から24年目、国会はようやく拉致疑惑の早期解決を決議しました。
国会が決議したその月、地村さんの妻・と志子さんは帰らぬ人となりました。
・保::「やっちゃんが帰ってくるまで居ろうという気持ちがあったんやと思うよ。
その気力で、あんで23年もの間、
寝たきりになっとったけんど生きとったんやと思うとるがな。
せめて、保志の顔だけでも見してやりたかったなぁ。。」
//////////////////////////////////
(専用機から降り立つ小泉総理)
2002年9月17日、小泉総理は北朝鮮の平壌空港に降り立ちました。
(豚野郎・金正日と小泉総理との握手シーン)
歴史的な日朝首脳会談にあたって、小泉総理はこう決意を語っています。
(インタビューで、その決意を語る小泉総理のシーン。)
「拉致問題の進展が無ければ国交正常化交渉に入れませんから。
これは水面下交渉以来一貫した、日本政府、私の基本姿勢です!」
世界が注目した日朝首脳会談の行方。地村さんは、と志子さんにこう報告しました。
(仏壇の前に座り、と志子さん〈の遺影〉に語りかける保さん)
・保::「良い話しを聞かせてやるから、それまでゆっくり休んどれよ」
金正日総書記は、日本人拉致という国家犯罪を認め、小泉総理に謝罪。
北朝鮮側は、非公式な形で、拉致被害者の安否情報を発表しました。
横田めぐみさん、93年に自殺。
市川修一さん、79年に溺死。増元るみ子さん、81年に病死。
田口八重子さん、86年に交通事故死。原敕晁さん、86年に病死。
松木薫さん、96年に交通事故死。
石岡亨さん、88年にガス中毒死。有本恵子さん、88年にガス中毒死。
拉致被害者13人の内、実に8人が死亡という安否情報に衝撃が走りました。
そして、地村保志さん浜本富貴恵さんら5人は、無事であることが確認されたのです。
(2002年10月15日、帰国・再会シーン)
10月15日政府専用機から保志さんと富貴恵さんが降り立ちました。
24年ぶりに再会を果たした父と子は抱き合い、妹は兄の腕を強く手繰り寄せました。
24年間ひと時も忘れなかったふるさとへ、二人を待ち続けた人がいるふるさとへ、
今帰る時が来たのです。
(帰郷した時の様子がしばらく流れる。保志さんの、と志子さんへの帰郷報告など)
この日から地村さんの家は、団欒の灯りと笑い声を取り戻しました。
しかし、戦いは終わったわけではありません。
/////////////////////
浜本雄幸さんが、99年に河野洋平外務大臣に送った手紙。
拉致被害者の家族の心情を切々と訴えています。
(手紙ズーム)
『私の妹・富貴恵は、なんの消息も無く、
ただただ安息を祈り待ち侘びているのであります。誠に失礼とは存じますが、
日朝交渉には全知全能を振り絞ってご検討くださいますよう、お願い申し上げます』
(2003年、国連人権委員会陳述。於ジュネーブ)
日朝首脳会談から7ヵ月後、今家族会は世界に向けたアピールを始めています。
国連人権委員会はこれまでに、北朝鮮の拉致問題の解決などを要求する決議を採択
。家族会の叫びを正面から受け止めています。
(国連人権委強制的失踪作業部会ガルシア・サヤン議長、語る)
「拉致被害者8人の安否と所在が明確になるまで追求していきます」
〔※ごいち注・当然、議長は英語で話してます。
聞き取れないので訳を書き取りw〕
(横田早紀江さん)
「ほんとにやっとこのように大きなところで聞いていただくことができ、
そういう風な中で進んでいくってことを実感しました」
では国民の生命と財産を守るはずの外務省は、全知全能を傾けているのでしょうか?
(救う会副会長島田洋一さん。以下・島)
・島::「全然。外務省から、こういう部会の存在すらね、
教えてもらってなかったという、ま、実態ですけどね」
北朝鮮が今年4月国連人権委員会に提出した報告書。
拉致問題に激しく反発しています。
(報告書にズーム)
『過去何百万という朝鮮人を強制連行し、
多くの女性を従軍慰安婦として扱ったことに比べれば、
数人の拉致など問題にならない。
全ての日本の右翼勢力は、拉致問題を切り札にして、
平壌宣言の決定事項の進展を妨げている』
・島::「北朝鮮の非常にいい加減な対応。
あるいは、とにかく事態をごまかしてしまう。
そういったやり方に対する反論というか、ちゃんと用意しておかないといけない。
それが、全然やってなかったってことですね。」
ところが、日本の外務省が提出した報告書はわずか12行。
『新しい情報が入り次第報告したい』などと書かれていただけでした。
外務省は、その後批判をかわすかのように3ページの報告書を提出しましたが、
これでは、国家犯罪と戦う意思がないと言われても仕方がありません。
(署名用紙が高く積まれている)
家族が必死の思いで集めた署名。
これまでに200万以上が集まり、外務省や総理官邸に提出されています。
しかし、その声はまだ届いていないのです。
(小浜公園展望台で保さん)
・保::「もう77になってきたんで。。動ける間は、親としておじいさんとして、
孫がはっきり帰るまでは動いてやらなアカンな〜と思って。。。」
(雄幸さんの家で)
・雄::「病気もせずに戻れたのがよかった、というようなこと聞きましたしね。
ほんで、私もやっぱり神さんの願いが、
ちゃんとこの願いが聞き届けてもらえたんかなと思って嬉しかったな。
(立ちわかれ・・・の歌が書かれ窓際に下げられた札を見ながら)
3人の子供が帰ってきたらこれ外しても良かろうな〜。早く外せるように。。」
(京都駅前。街頭に立って署名活動を行う保さん、雄幸さん)
家族会は今日も街に出て、拉致問題への支援を訴え続けています。
北朝鮮に残された孫達を取り戻すために。
そして、残された全ての拉致被害者を取り戻すために。
終
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このドキュメント作品自体は、それほど良いものとは思ってません。
拉致問題全般として見ると、2,3回ムッとすることもありました。
(失礼。。。私の起こし方も十分変ですが。)
しかし、拉致問題が長引いた一つの原因として、
日本社会の縦割り行政・横のつながりのなさを挙げていることに興味というか、
いい点突いてるなと思いテープに起こしました。