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〜オープンニング〜(唱歌が流れる・・「浜千鳥」)
♪青い月夜の浜辺には、親を捜して鳴く鳥の、波の国から生まれ出る濡れた翼の銀の色♪
この曲をバックに街頭で演説する早紀江さんの声が聞こえる。
早紀江:私は横田めぐみの母親でございます。北朝鮮に拉致をされた子供たちを救出するための署名活動を行っております。親であるならば自分の命を削ってでも何とか救い出さなければならないとお思いになりませんでしょうか。どうか何も考えないで素通りしないでください。
〜ここからご自宅でのインタビュー〜
早紀江:私もこういうことが起きなければ、本当に普通の近隣のお父様お母様方と同じ、普通の夫婦で普通のおじさん・おばさんで普通の娘で普通に過ごしてたんですけど。
ナレーション:横田早紀江さん66歳、25年前のあの日のこと、今でもはっきり覚えている。
1977年11月15日、日本海に面した新潟市内から一人の少女が忽然と姿を消した。横田めぐみさん当時13歳。新潟市立寄居中学校に通う一年生。歌の好きな少女だった。めぐみさんには銀行に勤める父親の滋さん、母親の早紀江さん、そして4つ違いの双子の弟がいた。
家族5人は市の中心からさほど離れていない、新潟市水道町にある木造一戸建てに暮らしていた。家を出て北へ伸びるまっすぐな坂道をくだるとまもなく日本海にでた。(〜日本海の荒波がおしよせる音。〜)近くには広い境内を持つ護国神社があり、その先に松林が続いていた。街灯もないあたりは、夜になると漆黒の闇につつまれた。冬は海鳴りが聞こえて、時折吹き付ける突風で、雨戸がガタンゴトンとものすごい音をたてた。(〜海鳴りの音と突風が吹きつける音〜)
その日は冬の新潟ではめずらしく、天気のいい暖かな朝だった。めぐみさんは、中学校でバトミントン部に所属していた。練習が終わって帰る頃には冷えるだろうからと、早紀江さんは廊下を走って玄関にいるめぐみさんに、レインコートを手渡そうとした。「どうしようかな。今日はいいわ。置いていく。」めぐみさんはそういうと、「いってきます。」と元気に家を飛び出していった。それが早紀江さんが見た娘の最後の姿だった。
〜突風が吹き荒れる音〜
ニッポン放送・報道特別番組 「ただいま」を聞くまで・・。母・横田早紀江の祈り
〜時計が時間を刻む音。チクタク・チクタク〜
ナレーション:めぐみさんはクラブ活動の練習がどんなに遅くなっても午後6時には家に帰ってきた。しかしその日はすでに7時をすぎていた。
早紀江:その日はもう、夕方になっても遅いんでどうしたんだろうと思ってとにかくあの〜あんまり遅いんで、今日は遅いって言ってなかったしね、学校まで見に言ってくるって、弟たちにもそう言って鍵かけて、ダーッっとつっかけ履いたままで一直線ですから学校まで行ったわけです。それで2、3人位の人とすれ違ったんですけど、もう暗〜いんですよ。あそこは本当に寂しい道でね。まさか違うだろうなと思いながら学生さんをみたりして、他の人で、校門まできましたところ、体育館の入り口のところからパッとのぞいたら、そこにはもう、バトミントンの選手たちはいなくて、ママさんバレーのお母さん方がみんなで練習してらしたんですよ。それでもうビックリしちゃったんですよ。いやあ〜大変だ。ってことでね。どうしたんだろう。その時にゾクーってなってね、ダーって戻ろうと思ったら、守衛さんさんがいらしたんで「バトミントンの子供達みんな帰りましたか?」て聞いたら「ええとっくに帰りましたよ。みんな。」とおっしゃたんで、もうこれは大変だと思って、そいでまた元きた道をダーって走ってね、帰ってきたんですよ。
ナレーション:家についても玄関にめぐみさんの靴はなかった。「お姉ちゃん帰ってない?」TVをみていた弟たちに聞くと、「まだだよ。どうしたの?」といいながら、二人は母親のもとに走ってきた。早紀江さんは懐中電灯を持ち、弟達を連れて再び学校のほうへ向かった。
早紀江:それでもう捜し回って、呼んで捜して今度護国神社の方、海の方なんですけどそちらの方もずーっと境内歩いたり、暗くて電気もついていなくて怖かったんですけど、もうなんかね、どこかに連れ込まれてるかもしれないと思って大きな声で呼んで捜し回って、また戻って海岸の方へ行って海岸の方もずっと照らして車なんか止まってますとね、中学生の女の子見ませんでしたか?とか言ってね大きな声で怒鳴られながら、ほんとに不安で不安で凍りつくような感じでした。
〜日本海の荒波の音〜
ナレーション:車のトランクに入れられたのかもしれない。早紀江さんは停車している車に近づいた。「触ったりすると怒られるよ。」幼い弟達が言った。不安と恐怖心で胸がつぶされそうになったがあきらめきれず、再び海岸を照らし、娘の持ち物が落ちていないかと捜し歩いた。夫の滋さんが勤務先から帰宅するのを待ってすぐに警察に届けた。午後9時50分、新潟中央署と東署の署員がかけつけ、周囲の空き地や廃業したホテル中、神社、松林などの捜索を始めた。草薮を棒でつつきながら捜したり、海岸に出て、遺留品が流れ着いていないかくまなく見て回った。が、めぐみさんの消息はいっこうににつかめない。めぐみさんが卒業した小学校の校長ババヨシエ先生は早紀江さんの様子をこう、振り返る。
「必死になって捜されておりましたけどね、なんかやっぱり絶対変な形でいなっくなったんではないと。必ず、彼女はいる。と もっともめぐみさんは賢い子でしたからね。変な形でいなくなるはずはないという自分の子供を信じるという気持ちがあったのだとおもいます。そういう様子はわかりましたねえ。」
娘はいったいどこへ行ってしまったのか。。。早紀江さんはいろいろな可能性を考えた。家出、自殺、それはどうしても思い当たらない。交通事故か?不良グループに連れさられたのか?警察は一週間後公開捜査に踏み切った。地元の新聞、新潟日報もめぐみさんの写真入りで事件を大きく報道した。
めぐみさんが失踪してからというもの、早紀江さんは家事を終えるとまだ行った事のない工場街など新潟市内をあちこちと歩き回った。「もう疲れたよ。」という幼い弟達に「もう少しだからがんばろうね。」と励まし、「めぐみちゃん、めぐみちゃん、」と叫びながら海岸線を何キロも歩き続けた。
家族の思いもむなしく手がかりのないまま、月日だけが流れ去った。
早紀江:もう、どんなことでも何か手がかりにならないかと思ってですね、あのーちょっとへんな電話があって名前でも聞くと、そういう同じ名字の人をずーっと電話帳で探したりして、全部かけたりして(電話を)もうあの時はいろんなことをやってましたね。あの、似ている人がいるともう、新聞の中にある写真が似ていると思うと何年かしたらこんなになっているかもしれないなんて思ってしまうんで、「そんなん似てない。」とか言うんですけど、「絶対似てる。」とか言って。それで新聞社にお電話して聞いたら、すぐに切り抜いて写真を送ってくださったりね。それ頂いたの見ると全然違っていてね。ああやっぱり違うわ。と思ったりね。それからよく似た人が街の中にいると、追っかけていてこうして見てみたりね。展覧会でも似た絵があると観に行って、絵描きさんに聞いて「それは違います。モデルさんはこういう人です。」て言われてがっかりしたりね。もう、いろんなことをあらゆることをしてきましたね。
ナレーション:滋さん、早紀江さん夫妻は娘が失踪した原因について何度となく話し合い、時には自分達の子育ての仕方が間違っていたのではないかと自らを責めることもあった。
やりきれない絶望感が早紀江さんを苦しめていった。毎晩、息子達が寝付いたあと、静まり返った部屋で一人、娘のことを思った。「めぐみはどこへいったのだろう。」
夜の訪れが怖くてしかたがなかった。白々と夜が明ける頃、早紀江さんは浅い眠りの中でめぐみさんと会った。
早紀江:桟橋がこうあってですね、それも木のような桟橋で青磁色のような緑ぽい川のようなところに桟橋があって、そこに人が何でかしらないけどいっぱい並んでいるんですよ。それで私達もいるんですね。そこにめぐみと私、二人だけなんですけど並んでいて、めぐみが持っていたレインコート、白なんですけどそれでなくて、青磁色のね、
何だか寂しい色なんですけどね、なんで学生なのにこんな色着ているんだろうと思ったのですけど、それで一緒に沈んだ感じでね、二人とも船を待っているんですね、船を待っているっていうのはおもしろいでしょ?桟橋で。そんなこと考えたこともないのにね。いっぱいたくさんいるんですよ、他の人も。でみんなしーんとして待っているわけですよ。で、船がくるとかそういうことはなかったのですが、そういう何ともいえない寂しい夢で、それはそれで目が覚めたんですけどそれからあんまりねえきちんとした夢はないんです。
ナレーション:警察の公開捜査に使った制服姿のめぐみさんの写真はどこか寂しげで、内気そうな少女に写っている。あの写真は風疹にかかり中学校の入学式を欠席しためぐみさんのために始業式がはじまる前の日曜日、桜が散り始めている中学校の校門の前で、滋さんが記念にとったものだった。めぐみさんの顔にはまだ発疹のあとがポツポツと残っていたという。
早紀江:あれはね、ちょっと失敗しちゃいましてね。あれを出すのは本当はいやだなあと私は思ったんですけど、ちょうどいなくなった時の制服の写真が何枚かあるんですけど、あの〜いつも皆さんに言うのですけど、病気上がりの写真でね、自分も嫌っていたんですよ。「こんな変な顔で、だから嫌だっていったでしょ。」とか言ってたんでちょっとだしたくないなあと思ったんですけど、一番顔が大きく写っているんですね。あの写真がね。これが一番わかるからっていうんで、だしたんですよ。全然イメージがね、あの子と違うのでやっぱりかわいそうなことしたなあっていつでも言っているんですけど。
ナレーション:明るく、朗らかなめぐみさんは、おもしろいことを言っては周囲を笑わせた。家に帰ってくると、その日あった出来事を大きな声で話すのでめぐみさんがいるところは、いつも賑やかだった。
早紀江:音楽は何でも歌ってましたけどねえ、「希望のささやき」とか「はにゅうの宿」とか「浜千鳥」とか「みかんの花咲く丘」とかよく大きな声で歌ってましたよ。私も好きだったからよく歌ってましけどね。。もう人のことなんか考えてないで大きな声でそこら辺を歩きながら歌ってましたからね、廊下なんかで大きな声でね、「もう歌うのやめた方がいいよ。隣でおばあちゃんが聞いてるから笑っちゃうよ。」とか私が言うと「いいんだよ。歌ぐらい歌うんだよ。」とか言ってね、歌ってましたよ。
ナレーション:めぐみさんは、本格的な発生練習はしたことはなかったが、歌が上手だった。小学校の卒業式の謝恩会で六年生全員がシューマンの「流浪の民」を歌った。
〜流浪の民が流れ始める〜
コーラス部に所属していためぐみさんは担任の進めもあってソプラノを独唱することになった。透き通るような高い声で・・・
〜めぐみさんの独唱部分が流れる〜
・・・「なれし故郷を放たれて夢に楽土求めたり」・・・
不思議にもめぐみさんの独唱部分は「なれし故郷を放たれて夢に楽土求めたり」唯一残されためぐみさんの声。早紀江さんは時々このテープを聞いてはとりわけ「なれし故郷を放たれて」の箇所でたまらない気持ちになり、ひとり泣いた。
〜再びめぐみさんの独唱部分が流れる〜
・・・「なれし故郷を放たれて夢に楽土求めたり」・・・
ナレーション:めぐみさんが失踪した翌年、富山県で奇妙な事件が起きた。海岸を歩いていたカップルが4人組の男にすれ違いざま、襲われたのである。男達は男女を押し倒し、後ろ手にして手錠をかけ足を紐でしばった。口にタオルを詰め、さらに特性の猿ぐつわをはめた上で頭からすっぽり布袋をかぶせ、近くの松林に運んだ。その襲撃はすばやく、4人の役割分担もはっきりしていた。
彼らは二つの袋を前にじっと何かを待っていた。30分程して近くで犬の吠える音がすると、なぜか4人は急いでその場を立ち去った。被害にあった男性が、袋をかぶったままうさぎ跳びをして近くの民家にたどり着き、助けを求めたため事件が発覚したのである。4人の男達が残していった外国製の布袋、手錠、猿ぐつわなどの遺留品、以前警察が逮捕した北朝鮮工作員から押収したものと同じだった。北朝鮮による犯行が明らかになった。
この事件がその年の夏に各地で連続して起きた3組のアべック蒸発事件の謎と結びついた。そのアベックとは他でもない。新潟県の蓮池薫さんと奥土祐木子さん、福井県の地村保志さんと浜本富貴恵さん、鹿児島県の市川修一さんと増元るみ子さん、この3組も北朝鮮工作員に連れさらわれたのではないか。拉致の可能性が急速に強まった。
早紀江さんはめぐみさんについて何か手がかりがないかと毎日、新聞の隅々まで目を通していた。そんな早紀江さんに近所の人がこのアベック失踪事件を取上げた産経新聞を持ってきた。もしかしてめぐみも同じ被害にあったかもしれない。早紀江さんはその記事をもって産経新聞新潟支局に行き、その後、新潟中央警察署へも足を運んだ。支局も警察も誘拐事件の被害者がすべて20代のカップルであったことからめぐみさんの失踪とは無関係なのではないかという見解だった。これでまた、1つの可能性が消えてしまった。
正月気分がまだ残る新潟市内に大粒の雪がふわり、ふわりと舞っていた。早紀江さんはこの寒空の下、あの子は一体どうなっているんだろう。そう思うと涙が溢れて止まらなかった。
早紀江:もう毎日毎日泣いていたんですよ。あの頃は。今は涙が涸れ果てて、ドライアイみたいになっちゃっていつも目が痛いんですけどね。でもほんとに雪が降ってきて、雪が降るまでになんとか帰ってきてほしいと思ってたんですけどね。もう、雪が降り始めるともう寂しいんですよね、新潟はね。しーんしーんとね雪が積もってきてね、それでほんとに寂しくてね、あんなに人間の寂しさをね感じたことはなかったですね。もう人間ってこんなに寂しい思いをするものかなって思いましたね。あの頃は。ほんとに寂しかったですね。
〜東京の雑踏を思わせる、せわしないような、人々が行きかう街の様子〜
ナレーション:1983年、昭和58年、滋さんの東京への転勤が決まった。もし娘が帰ってきて、我が家が真っ暗で鍵がかかっていたら、家族に見捨てられたと思うかもしれない。早紀江さんは転居先を書いた紙を雨に濡れないようビニールに入れて玄関の格子にくくりつけた。家族は後ろ髪を引かれる思いで、新潟を離れた。
東京に移った当初、周囲がめぐみさんの失踪事件をまったく知らない環境の中で、早紀江さんは少し解放されたような気分になった。しかし、その開放感もすぐに寂しさへと変わっていった。東京にはめぐみさんの面影を残すものは何もない。娘がいた新潟の風景から離れてしまうと、もう2度と娘に会えないのではないか。都会の賑やかな大通りを一人、泣きながら途方に暮れたこともあった。
めぐみさんがいなくなってから、20年が過ぎた。元気でいれば32歳になっている。
1997年1月21日。(電話が鳴る)
定年を迎えて家にいた滋さんのもとに、1本の電話が入った。日本の海岸から次々と姿を消した失踪者に対して独自に調査を進めていた、国会議員秘書の兵本達吉さんが娘さんのことですぐに会って話がしたい。というものだった。
兵本: まあほんとにもう、1時間もたたないうちに、国会へお父さんがみえたですね。それで私まず石高さんの文章を読んでもらったんですけど、もう顔真っ赤にしてね、すぐ涙ぐまれて、これはどうもねえ、うちのめぐみだというわけよね。
ナレーション:兵本さんのいう、石高さんとは元北朝鮮工作員から日本人拉致の証言を引き出した朝日放送のプロデューサーである。元工作員の証言の中には日本で拉致された13歳の少女のことが触れられていた。バトミントンの練習の帰り、双子の兄弟などめぐみさんを思わせる言葉がいくつもあった。外出先から帰宅してその話を聞いた早紀江さんは・・・
早紀江:もうびっくりしてね、生きてたのね〜、もうよかったあ〜。ほんとに夢のようでした。生きてたんだあ、ということがね、ほんとに夢のようでよかった、よかった、でもちゃんと帰ってこれるのかなというのはねありましたね。実際、北朝鮮ていうなんでそんな遠い所にね行っているんだろうってことがわからなかったし、そういことでだんだん、アン・ミョンジンさんとかのね、証言を教えて下さって、それで実は工作員というのがいて、日本人をいろいろな所でアベックの人もさらわれていって、めぐみさんも学校の帰りにさらわれたんだということを聞いて、もうほんとにびっくりしてね、いろんな連れていかれ方とかね、かわいそうなことを聞いて、もうほんとにたまらなかったですけど。
ナレーション:拉致されためぐみさんは、工作船の真っ暗な船底に40時間以上も閉じ込められて北朝鮮に連れていかれた。お母さん、お母さん、と泣き叫び、壁や扉を引っ掻いたため、北朝鮮に着いたころには爪がはがれそうになって指は血だらけだったという。」
早紀江:もう、私だったらほんとに舌を噛み切ってたかもしれないと思うくらいの恐怖だと思うんですよ。海にでもはまっちゃった方がいいと思ったかもしれないと思うんですけど、よくね、ほんと〜によく生きていてくれたと思うんですよね。
ナレーション:早紀江さんの思いは娘を奪われた悲しみから怒りへと変わっていった。元工作員の証言、被害者の少女、拉致問題への世間の関心が急激に高まった。国会やマスコミでも少しずつ取上げられるようになったが、国交のない北朝鮮に対して具体的な手立ては何ひとつない。横田夫妻の孤独な戦いが始まった。
〜街頭での演説〜
早紀江:私は横田めぐみの母親でございます。今日はたくさんの方のご支援を得まして北朝鮮に拉致された子供達を救出するための署名活動を行っております。私達は本当に、20年の間、下校の途中で忽然と消えた娘・めぐみをどうしていなくなったのかわからないままでまいりました。本当にいろいろなことを考え、いろいろなことに悩み、苦しみ、泣き喚き、もう死にたい思いで捜しまわっておりましたけども、何ひとつ根拠がなく、まるで神隠しのようにいなくなった子供です。ほんとに体にむちうちながら、この様に全国を歩いて救出の呼びかけをしてまいりました。もし、皆様方が今、お手元にいらっしゃるかわいいお子さんが、その場で忽然と消え、その方が北朝鮮にいるとわかった時はどうなさるでしょうか?親であるならば、自分の命を削っても何とかして救いださなければならないとお思いになりませんでしょうか。どうか、何も考えないで素通りをしないでください。皆様のお子様がもしそうだったら、私は毎日お手伝いに参ります。ほんとに自分のことと思ってください。
ナレーション:当時の外務省は日朝国交正常化を急ぐあまり、その交渉の妨げになる拉致問題に関して具体的な対策をまったく示さなかった。
早紀江:外務省はひどかったですねえ。今までねえ。だって「たった10人のことで、日朝交渉の妨げになったらどうするんだ。」って局長が言っているんですもんね、昔のね。あんな人がいるんだからねえ。大変なことですよ、これは。自分のお子さんが連れて行かれててもそういう風にいうのかなって思いますよほんとに。絶対言わないと思いますよ、そういう時は(自分の子供が拉致されていたら)
だからそういうことろにたたないと、いけないことだと思いますよね。
ナレーション:横田夫妻と同じ様に、その他の家族も手がかりのないまま、20年以上も子供達を捜し続けていた。悲嘆に暮れている家族を見て、兵本さん達は同じ境遇の人で家族の会を作って団結しようと呼びかけた。
家族はお互いに背負った悲しみを分かち合うようになった。
有本恵子さんの母、嘉代子さんについて早紀江さんは、
早紀江:あの〜有本さんなんかね、ほんとにね、ずーっと長い間ね(涙声)外務省に何度も行って、それで足蹴にされて、「そんなこと言うと子供の命が危ないから黙ってなさい。」とかね、「そういうことはなんだかんだと」言われて、すごすごと家に帰られて、その間ほんとにどんな思いをされていたかわからない訳ですね。
ナレーション:福井県の地村保志さんの母、と志子さんは息子がいなくなってから脳梗塞で倒れ、病に伏していた。
早紀江:地村さんもお母様がご病気になられて、すぐに倒れられて脳梗塞で倒れられて、そして全部動かなくなられて寝たっきりになられたのを、お父様がほんとにいい方でね、もう本当に一生懸命看病しながらしもの世話からお食事から一人でして、そして畑に出て働かれて、そして署名活動も一軒、一軒回られて、それで奥様に「今日待ってなさいよ。やっちゃん助けるためにがんばってくる。」って言っておにぎりも作って、サランラップに包んで奥様の枕元に置かれるんですけど、かなり、遠くに置かれるんですよ。「そんなところに置いたら届かないじゃないですか?そんなことしたら、奥様が大変だから近くに寄せてあげてください。」って言うと「いや、寝たきりだから、筋肉が衰えるからちょっとでも無理をして取るようにすることで、筋肉がつくんです。」っておっしゃった時はもう、ほんとに(涙で声が詰まる)頭が下がりましたよ。かわいそうでね。よくここまで愛をもってね、考えて奥様に尽くしていらっしゃるのだなあ。って思いましたし。みんな一人一人のことは、それぞれの家庭で状況が違いますけど、それぞれの方みんなその中で物凄い地獄の闇の中を一生懸命生きていらしたんですよね。
ナレーション:と志子さんは、息子保志さんの帰国を前に帰らぬ人となった。
政治家や役人が動かないなら、世論に訴えよう!早紀江さんをはじめ家族会は街頭での署名活動を始めた。
〜「署名活動にご協力お願いします。」街頭での署名活動の様子〜
ナレーション:六年間活動を共にしてきた救う会新潟のメンバー保刈桂子さんは
保刈: やっぱり本当のね、苦しみと悲しみのどん底をくぐりぬけて、強くなられた方だと思います。そして我が子を思う一心ですね。私もご家族の皆さんと6年近く署名活動とか陳情とかやってまいりましたけどほんとに炎天下の中、寒風吹きすさぶ中、知らん顔して通りすぎてゆく人達に、みんなに頭を下げて、「子供達を助けてやってくだいさい。」「ひとめ会わせてください。」そういうなんていうのかなあ横に一緒に立っていても込み上げてくるものがあるような、悲痛な訴えでしたね。
ナレーション:救う会・新潟の会長、小島晴則さんも、早紀江さんの姿をこう語る。
小島:私がね、六年間あのお母さんのね、見ておりましてね、非常に母親としての愛情が深いといいますかね、一般の家庭にどこにでもいる母親でありながらしかしまた、あの人しか持ち合わせていないそういう愛情というのを感じるんですね。それが今度ね、ある段階から3年位たってからね、あの方はね、自分の親子という枠から大きく国家という立場から、話を訴えられるんですよ。いつもあの方がね、最後に使った言葉は凛とした言葉で、凛とした国家、凛としたものが失われてきたと。私はめぐみのね、拉致問題を通して痛切に感じているのだと。どうか凛とした国家にねしてくださいと。いう風に変わってきたんですね。
ナレーション:平凡な主婦が国を相手に戦わなければならなかった。
早紀江:どこかの時代で、誰かがやらなければならないのではないですか?小泉さんにもね、お手紙にも書いたんですよ。いろんな方にたくさん書いてきたんですよ。橋本龍太郎さんにも書いたし、河野洋平さんにも書きましたし、いろんな人に書いてきたけど、結局全然動かない。誰が助けてくれるのですか?って小泉さんに書いたんですよ。どの時代かの誰かが、するしかないことではないのでしょうか?ってあなたがそうなってくださいって。私達も応援するしがんばってやってください。って手紙書いたんですよ。そういうことだとおもいません?誰かがどこかの時代でやらなくてはならない、大変な問題なんですよね。
ナレーション:めぐみさんが北朝鮮にいることを知らせた兵本達吉さんも母親の強さを知るひとり。
兵本: やっぱりお母さんの頑張りってすごいんだよね。横田さんのとこにしたって早紀江さんね、有本恵子さんのお母さん嘉代子さん、昔からね、「女は弱し、されど母は強し」という言葉があるでしょう?やっぱり自分が生んでるからね、お母さんていうのはいざとなるとすごく強いんだね。お父さんのほうがまず、うろうろしちゃってさ、おたおたしちゃうんだけど、お母さんはどこも毅然としている。
ナレーション:2002年9月16日。日比谷公会堂。
早紀江:(拍手)皆さんこんにちは。私は横田めぐみの母親でございます。ほんとに多くのいろいろな分野の方々が、それぞれの能力と知恵と才能を発揮してくださって、このような頼りない私達をほんとに(涙声)心から支えてくださって今日までがんばってくることができました。(拍手)私達の子供はすぐ近くの朝鮮半島の半分のどこかに元気でいるという亡命工作員のお話の中で、私達はほんとに命があるのにどうしてこのように25年間も助けだすことが出来ないのだろうと、それが不思議で仕方がないのです。みんな父親であり、母親であります。自分の子供達がこのようなことになったら、海を泳いででもなんとしてでもその国に行って、大きい声で「めぐみ〜!るみ子〜!と言って、ほんとに大きな声で泣き叫びたい思いなのです。」どうか我が子に会えるように、明日の訪朝の小泉総理の心の中に父親としての毅然とした思いで、自分の息子だったらここでどういう風に言うだろうかと、その思いをもって挑戦していってほしいと。良い結果がくるように、心から祈っております。これからもどうぞよろしくお願いします。
ナレーション:早紀江さんたち家族の思いが、遂に歴史の扉を開けた。翌、9月17日。史上初の日朝首脳会談。拉致事件の解決に向けて日本政府が動き始めた。しかし、その結果は・・・
小泉総理:本日、金正日国防委員長との会談におきまして、拉致問題については安否を確認することはできましたが、帰国を果たせず、亡くなられた方々のことを思うと痛恨の極みであります。
ご家族のお気持ちを思うと、言うべき言葉もありません。
早紀江:今日、思いがけない、情報でほんとにもう、びっくりいたしましたけれど、あの国のことですから、何か一生懸命に仕事をさせられている者は簡単にだせないと、いうことだろうと私は思っております。絶対にこの何もない、いつ死んだかどうかもわからない様な、そんなことを信じることはできません!そしてこれまで長い間、ほんとにこのように放置されてきた、日本の若者達のことを、どうぞ皆様方もこれからほんとに真心をもって報道してください。日本の国のために、このように犠牲になって苦しみ、また亡くなったかもしれない。若い者たちの、心の内を思ってください。そして、このようなことですけれども、私達が一生懸命に支援の会の方々と力を合わせて、戦ってきたこのことが、こうして大きな政治の中の大変な問題であることを暴露しました。このことはほんとに日本にとって大事なことでした。北朝鮮にとっても大事なことです。そのようなことのために、ほんとに、めぐみは犠牲になり、また使命を果たしたのではないかと私は信じています。いずれ人は皆、死んでいきます。ほんとに濃厚な足跡を残していったのではないかと私はそう思うことでこれからも頑張ってまいりますので、どうかほんとに皆様と共に、戦っていきたいと思います。ほんとに、めぐみのことを愛してくださって、いつもいつも取材して下さって、めぐみちゃんのことをいつも呼び続けてくださった皆様に、また祈っていてくださった皆様に心から感謝をいたします。まだ生きていることを信じ続けて戦ってまいります。ありがとうございます。
ナレーション:北朝鮮から提示された拉致被害者の安否情報。その死亡者リストに「横田めぐみ」の文字があった。
共に戦ってきた、救う会新潟の小島会長は。
小島: あの言葉でね、どれだけ家族の皆さんがね、なんていうか励まされたというのか、だから生きていると伝えられた家族も亡くなったといわれた家族もですね、あの場ではね、差がなくてね、とにかく解決に向けてこれからも団結していきましょう。となってきたんですね。今日本の国家に一番大切なねものが欠けちゃった。その欠けている部分を補っているのはこの家族の気持ちではないかとね、感じましたね。
ナレーション:後日、北朝鮮側から提示された不確かな死亡報告書。そこにはめぐみさんの死因が「うつ病で自殺」と記されてあった。
早紀江:まさか。。何よこれ!ていう感じでびっくり仰天して、そんなバカな。こんなことをしたんだっていう思いでね一瞬また電気ショック第二弾がきましてですね、ほんとになんてことなんだろうと思ってだけども絶対違うって、これはもう違うって、なんかわかんないんですけどそう思ってね、この国はこんなこと書いてくるけど違うなあ。絶対今だせない人なんだろうっていう思いが先にきたものですから、もうすぐにこれは信じられないな。と思いましたですけどね。ほんとにね、めったに受けたことのない電気ショックです。ガンガンと受けて。
ナレーション:さらに20代の頃とされるめぐみさんの写真も公表された。ふっくらとした頬。物憂げな瞳。13歳の時、中学校の校門の前で取った時の写真と見比べると、どこか面影が残っているようにも見える。
早紀江:そんなすぐに、あっ、めぐみだっていうふうには思わなかったの、私は。あの目を見ますからね、あの子は目が特徴があって、ちょっと細くて切れ長の細い目をしてますからね、ああいう苦しい中にあって、向こうに行ったっていうことはかなり、険しいね、目になっているだろうという印象があったんですよ。私はいつもそれを思ってたんですよ。だからああいう、ほんわかとしたようなものはあんまり残ってなくて、ちょっとこれは違うなあ。目がちょっと違うのではないかなあ。だからはじめはこう、疑り深くて、あそこの国がやることだからまたいろいろとね、作ってきたのかなあ。とかいろんなことを思ったりね、してましたけど、だんだんね、見てるとやっぱりこれ位になるとこういう風になったのかもしれないなあ。彼女なんだろうかなあ。と思ったりしています。
ナレーション:悲しみに暮れる間もなく、早紀江さんをさらに驚かせることがあった。
〜ヘギョンちゃんが朝鮮語でしゃべっている声〜
ナレーション:めぐみさんと北朝鮮の男性との間に生まれたキム・ヘギョンと名乗る15歳の少女が現れた。
早紀江:ほんとに腰が抜けるくらい驚くようなことで、横田めぐみを捜してましたけど、結局北朝鮮とわかっても、ほんとにそこにいるという確証がつかめないでいますけど、この人の血液を調べたら間違いなく、めぐみから生まれた人がそこにいたということは、やはりめぐみはそこにいたんだ。ということがはっきりわかったことで、それは良かったし、元気なね、あの頃のめぐみと同じ位の女の子が、あんなに元気そうで、清純で純粋な感じで話してますけど、ほんとに不思議なことが起こるものだなあ。ていうねえ、今でも物語の世界が続いているような不思議な感覚なんですよね。
ナレーション:2002年、早紀江さんにとって、止まっていた時計の針が急速に回り始めた。
〜お正月の買出しの様子が聞こえてくる。威勢のいい売り子さんの声〜
早紀江:楽しいお正月も、年末も私達はみんなでいましたからね、めぐみがいましたからね、賑やかな子でしたから、いつも団欒していても楽しかったのですけど、今はもう、それから後の長い間というのは本当の意味で心が晴れない、寂しいというのがいつもどこかにあって、お正月は目出度いなという昔のような気分にはなれない。クリスマスがきても、クリスマスソングなんか聴くと、もうほんと賛美して歌いたい歌なんですけどものすごく悲しいんですよ。(涙声)私にとっては。あのジングルベルもそうだし、ホワイトクリスマスがなりだすとね、なんかね、もう見えないんですよ。寂しくて。
早紀江:めぐみちゃんも今は死んだといわれてますけど、もし死であってもそれは無駄だとは思ってないです。生きていると思ってますから。そのことはきっとまたね、ものすごい大きな喜びにね、ヘギョンちゃんも含めてそういう
日が迎えられたらいいなと私はそれが目標でね、救ってあげなきゃと思って皆さんにも助けて頂いて、頑張っていきたいと思っているんです。
早紀江:生きている間になすべきことはきちっとして、命を終えたいと。このごろはほんとにその思いが一番大きくて、ひとつひとつの時間を間違いのないように、大事にして戦っていきたいと思っていますので、どうぞ皆様方も一緒になって対峙してくださるようにお願いを致します。ありがとうございました。
ナレーション:あの日、あの朝、「いってきます。」の言葉を残してめぐみさんが家を出てから25年。また新たな1年が加わろうとしている。
〜唱歌が流れる〜♪青い月夜の浜辺には、親を捜して鳴く鳥の、波の国から生まれ出る濡れた翼の銀の色♪
ナレーション:めぐみさんが好きだったこの歌を聞くと、早紀江さんは自分が鳥になれたらと思うことがある。もしも翼があったら、海の向こうに飛んで行って、娘を救いだせるのに。めぐみさんの歌声は日本海の波間から今も聞こえている。
〜早紀江さんの言葉〜
親であるならば、自分の命を削っても何とかして救い出さなければならないとお思いになりませんでしょうか。どうか何も考えないで素通りをしないでください。皆様のお子様がもしそうだったら、私は毎日お手伝いに参ります。自分の子供達がこのようになったらほんとに海を泳いででもなんとしてでもその国にでも行って大きい声で「めぐみ〜!」と言って大きな声で泣き叫びたい思いなのです。いずれ人は皆死んでいきます。ほんとに濃厚な足跡を残していったのではないかと私はそう思うことでこれからも頑張ってまいります。
ナレーション:「ただいまを聞くまで」早紀江さんの戦いは終わらない。
終わり
よっこ様(投稿)
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