【曽我ひとみさんのお話】
(大きな拍手の中、曽我ひとみさんをはじめとする登壇者がステージ上に登場)
※西岡力氏
皆さんこんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
時間になりましたので、「曽我ミヨシさんを救出するぞ!東京集会」を開きたいと思います。
よろしくお願いいたします。(大きな拍手)
曽我さんっていうとだいたい日本人は曽我ひとみさんを思い出すんですが、今日はひとみさんにも来ていただいてますけども、曽我ミヨシさんのことをみんなで考えようと。
曽我ミヨシさんを私たちが全力を尽くして救い出そうと、そういう集会です。
曽我ミヨシさんの家族として、曽我ひとみさんが佐渡から今日来てくださいました。
まず東京に出てきて、何の目的で出てきたのか?
そのことを一言ひとみさんに話していただいて集会を始めたいと思います。
☆曽我ひとみさん
(拍手)
皆さんこんばんは。(「こんばんは」の声)
お忙しい中、こうしてお集まりいただきまして本当にありがとうございます。
今日私が東京の方に出てきたのは、私にとって本当に一人しかいない母を、皆様のお力を借りてまた静かな佐渡で私たちと一緒に暮らすことが出来るように、お願いに上がりました。(拍手)
※西岡氏
あんまり長い話をするのは慣れてらっしゃらないと言うことなので、掛け合い方式でお話を聞こうと思います。
自己紹介が遅れましたが救う会の西岡です。
よろしくお願いいたします。(拍手)
曽我ミヨシさんの救出を訴えるために東京にいらっしゃったんですが、その本題に入る前にですね。
最近の帰ってこられた家族との佐渡での近況を少しお話をしていただいて、国民の皆様にご挨拶をしていただきたいと思います。
☆曽我ひとみさん
こうして皆様方のおかげで私たち家族4人は佐渡で楽しく生活をしております。
娘二人も4月から新潟の大学の方で勉強させてもらっております。
友達も少しづつ出来始めて。
最初は人が、大学で生徒たちが沢山いるんで、最初はちょっとびっくりしていましたけど、だんだん今は慣れてきて学校の生活もとても楽しいと言っております。
そして夫の方ですけども、最近は暖かくなってきたので畑で野菜(作り)を一杯やっています。
私は真野支所の方で、検診のお手伝いをして、今一番忙しい時期です。
検診が始まったので。
一生懸命頑張ってます。(拍手)
※西岡氏
それでは本題に入って、曽我さんがこの世界で一人しかいない愛するお母さん。
先ほど言いましたけども、曽我ミヨシさんがどんな人だったのか?
この連続集会でずっと皆さんにもお話をしていただいてますけども、曽我ミヨシさんの思い出を話していただきたいと思います。
☆曽我ひとみさん
私の母は本当に物静な働き者の母でした。
いろんな話があるんですけど。
私が多分3歳か4歳くらいの時だったと思うんですけども、皇居の方に勤労奉仕で行ってました。
その時私が小さかったんで、一緒について行きたかったんですが、「ついていきたい」とわんわん泣いたこともありました。
うちの生活が貧しかったため、母は昼間は土建業って言うか、ヒューム管で油とセメントなどをいじって本当に大変な仕事を毎日しておりました。
それから夜帰ってきてからは12時くらいまで内職でざるを作っていました。
そのざるを作るのも自分の休みの日に山に行って、その頃は車なんかもなかったですから、一人でリヤカーを引っ張って山に竹を切りに行って。
それで一生懸命私たちを育ててくれました。
母はあまり怒ることがなくって、私たちきょうだいに手をあげることもほとんど無く、本当に優しい優しい母でした。
私たちきょうだいには、自分がどんなに苦しくても辛くてもそういう顔を見せずに本当に優しく育ててくれました。
そんな母でしたけど、時にはやっぱりやるせないこともあって、夜中ひとりで布団の中で泣いていることもありました。
私の父がお酒が大好きだったもんで、それについても色々と母は苦労したと思います。
それで私があるとき「こんなにお酒飲むんだったら、別れてしまえば?」と子供ながらに母に言いました。
そしたら母は笑っていました。
その笑い顔、微笑を私は今でも忘れていません。
それと私が今手にはめている時計ですけど、まぁ見ると男物の時計なんですけど、私にしてみると、この26年間母であり、時計というよりは私の母だと今でも思っています。
丁度あの日。
思い出したくも無い、あの日です。
母と別れた日に、その日からずっと私の腕にはこの時計がありました。
それで向こうに行って10年くらいはこの時計をずっと身に付けていました。

今ちょっとはっきりは覚えていないんですけど、10年少し経ったくらいで時計が動かないようになってしまいました。
その時もちろん機械だから壊れることもあるだろう。
それは普通なんですけど、私にとってはこの時計が母と同じ存在だったので、その時すごく心配しました。
お母さん、どこかで病気でもしてるんじゃないか?と。
なんかこの時計が教えてくれたのかなぁ?と本当にやるせない気持ちになりました。
その後直すことが出来なかった時計も皆様方のおかげで、私が日本に帰ってから、このように動くようになりました。
だから私はこの時計が直った時に思いました。
絶対母もこの時計と同じように、どこかで絶対に元気で生きていると。
そして今も私は母の帰りを一生懸命待っています。
※西岡氏
今お母さんと別れた日のこと、その時から時計をしていらっしゃったと言いましたけれども。
会場の皆さんには資料として曽我ひとみさんが2002年の12月にジュネーブの国連人権委員会に強制的失踪作業部会にどのように拉致されたのか?という事について説明の書簡を出しています。
・・・以下配布された資料を紹介・・・
◆曽我ひとみさんが2003年11月12日ジュネーブ人権委員会強制的失踪者作業部会に提出した書簡
1978年8月12日土曜日、19時頃、家を出て私と母は近所のお店に夕食のおかずを買いに二人で出かけました。その日は、ごく普通の日を過ごし二人で出かけた買い物が母と生き別れになってしますとは知る由もありませんでした。
私の家から、逸見商店までは、まっすぐな一本道で500メートル位離れている場所にあり、歩いて5〜6分の距離です。私の家も、お店も国道沿いです。国道沿いには四日町の家並みが続いていますが、その当時はとても暗く、当時街頭は数少なかったので、大変くらい道でした。灯りと言えば、家並みの中の灯りがぼんやりと照らされる程度でした。最初、家を出て反対側に渡り、海側の歩道を母と一列になって歩いていました。生きも帰りも車の往来は2〜3台程度でした。
お店について、お店の中には10分もいなかったと思います。品物をみながら「あれにしようか、これにしようか?」と決めたりして、お店のおばさんと少し会話をしてお店を後にしました。帰り道も海側を歩きました。帰りは母と二人並んで歩いていました。その日の帰り道に、私と母に挨拶をしたと言う、近所のおばさんの証言がありますが、私には覚えがありません。
私と母は、買い物を終えて、話をしながら家に向かっていました。お店と家のちょうど真ん中辺りを少し過ぎた頃、国道沿いにある農機具整備工場の手前、Nさんのお宅辺りだと思います。背後に人の気配がして、私が後ろを振り向くと、男の人が3人横並びに私達の後ろをついてくるのが見えました。私と母は、その男達3人を見て「気持ち悪い、怖いね」と話をしながら歩き続けました。その後少しして、私と母が足早に歩き始めた途端、急に後ろから男達3人が、走って来て私と母は、国道沿いの農機具整備工場から14〜15メート李先のお宅の敷地内にある、歩道と敷地内野坂委に140cm位の高さの赤い実のなる木の辺りに引きずり込まれました。
私はすぐに、口をふさがれ、手足を縛られ、袋の中に入れられました。私はちょっと果て移行しましたが、男性3人の力と私の力では抵抗できず、体をバタバタさせるぐらいしか出来なかったのです。母は襲われるまで横にいたから一緒に襲われたと思いましたが、私はすぐに、袋に入れら担がれ、その場を去った様なので、母の気配は感じることさえ無理でした。そして、私は1人に担がれ数分運ばれて、小舟らしいものに乗せられて、しばらくして、膿にでた気配を感じました。
縛られて、袋の中に入れられたまま船の中で出発を待っている時に日本語を話す女性の声がしました。しかし日本人ではないような気がしました。日本語の話し方が少しおかしいようでした。小さな声で話をしていたので内容は聞き取れませんでした。そして、誰と話をしているかも、その中にいる人数も、わかりませんでした。
海に出た後、もう少し、大きい船に乗り替えました。袋のまま船室の中の一室へ運ばれ初めて袋から出して貰いました。部屋の中からは、一日中出ることもなく、その船の中で人を見たのは、朝と昼、2回の食事を運んできた男性のみ1人だけでした。
1978年8月13日、17時頃、北朝鮮の清津に到着。(13日17時頃と、時間がはっきり覚えているのは、拉致されたとき腕時計を身につけていましたので時間は覚えています)清津について後、招待所に移動しましたが、その責任者に母の行方を聞きましたところ、「日本で元気に暮らしているから心配しなくてもいい」と言われました。
◆曾我ひとみさん、ミヨシさんに関する北朝鮮側の「情報」
「(曽我ひとみさんは)、1978年8月12日、特殊機観光索引が未分化串および語学教育の目的で現地請負業者(日本人)に依頼し、引き渡しを受けて連れてきた」「母・ミヨシさんについては承知していない。特殊機関工作員が現地請負業者から引き渡しを受けたのは曾我ひとみさ一人だけ」(「拉致に関する調査結果」平成14年9月28日〜10月1日)
・・・資料の紹介終了・・・ |
※西岡氏
お母さんがどのように襲われたのかを明らかにするためには、自分がどう襲われたのかを明らかにしなければならないと言うことで。
あんまり思い出したくなかったのとですけど、詳しく書いていただいたんですが。
お母さんの事を探す・救出するためには、その時のことをどうしても考えなくてはいけないと思いますので。
あんまり思い出したくない思い出かもしれませんけれども、ここでどのように拉致されていったのか?という事に付いてちょっと話してくださいますか?
☆曽我ひとみさん
1978年、丁度その日は土曜日でした。
私がその頃看護学校に通っていて、丁度毎週土曜日になると家に帰っていました。
その日夕方母が帰ってきて、丁度8月12日なのでお盆の支度をしたり、ちょっと忙しいときでした。
それで夕方もう7時は回っていましたけど、母と一緒に近所の雑貨屋さんに買い物に出かけました。
そんなに遠くもないので普段着で、草履で、財布ひとつ持って、それで二人して出かけました。
その時には街灯もほとんど無く、道路と言ってもあまり車も通らない。
そういった頃でした。
明かりと言えば家々からもれてくるような、ちょっと薄暗いそんな明かりしかない頃でした。
店に行って二人で買い物を済ませて、家に向かっていました。
店を出ながら1週間あった話をいろいろ母としながら二人で歩いていると、何か後ろに人の気配を感じたので私が後ろを振り向きました。
そうした所、後ろには3人の男が横並びで付いて来てました。
その時母と二人で何か気持ち悪いから、二人共早足になって、少しでも早く家に帰ろうと話をしながら足を早くして歩き始めたその時でした。
後ろから・・・余り靴の音はしなかったんですよね、何か静かにぱ〜っとこう来たって感じで。
道路の横にあった木の下に私と母は引きずり込まれてしまいました。
その後は口、手足を縛られて袋に入れられました。
そして船に乗せられ、着いたのが北朝鮮でした。
もちろん行った当初はその地名も分かりませんでしたけど、後で汽車とか時間的に計算してみると、まぁこのくらい時間がかかったから、まぁこの場所だろうと言う。
そういうふうにして場所がハッキリ分かりました。
だけど、その・・・(西岡氏「北朝鮮だと分かった?」)清津だと。
(西岡氏「清津だと分かった?」)はい。
それでその時に袋に入れられた後は母の姿は・・・見てないです。
※西岡氏
その3人の男に襲われて袋に入れられてそれで担がれて川の船に乗せられたんですよね?
その間何分くらいだったんですか?
☆曽我ひとみさん
もちろん私もその時に自分自身何が何か分からないくらいだったんで、時間と言われてもちょっとあれですけど、そんなに長い時間じゃなかったような気がします。
※西岡氏
そこが大事なんで確認しますけど、途中車に乗せられたりとか隠れ家のような所に連れて行かれたんじゃなくて。
その3人の中の一人に担がれてその3人と一緒にボートで、小さな船ですよね最初は。
小さな船で外に出て、そこから一回乗り換えて大きな船に乗ったと、それでいいんですか?
☆曽我ひとみさん
そうです。
※西岡氏
ゴムボートみたいだったんですか?
☆曽我ひとみさん
私がぽっと置かれた所は板みたいになってて、下がどうなってるのかちょっと私も袋に入れられているので分からないんですけど、置かれた所はとにかく下に板がありました。
※西岡氏
そこでつまり曾我さんがいて、3人の男がいて、そして何か他にお母さんの気配とか無かったんですか?
☆曽我ひとみさん
その時母の気配は感じてないんですけど、その時に下手な日本語と言うか、で、話をしている女性がいました。
※西岡氏
下手な日本語と言うのは日本人の日本語じゃないということですか?
☆曽我ひとみさん
はい、そうです。
※西岡氏
女性。
曽我さんに対して話しかけたんですか?
☆曽我ひとみさん
いいえ私に対してじゃないです。
※西岡氏
そこのボートの所に男3人と下手な日本語を話す女性一人と、曽我さんが袋にいれられていたと。
男3人は朝鮮人ですから下手な日本語を話す必要はないですよね?
曽我さんに話しかけなかったということは、これは私・西岡の推測ですけども、そのボートの別の所に曽我さんのお母さんがいて。
富山の事件で未遂事件がありましたけども「静かにしなさい」とやっぱり下手な日本語で言われてるんですね。
何か暴れたりすると「静かにしなさい」と言われると。
つまり曾我さんは感じなかったけれどもそこにお母さんがいたという証拠じゃないか?
そこでもう一回聞くとそこでどんな話をしてたんですか?
「静かにしなさい」の他に、意味は分かったんですか?
☆曽我ひとみさん
私がいた場所よりもちょっと多分離れた場所にいたと思うんですよ。
それで日本語で話してるな、と言うのはハッキリと分かるんですけども、その一言一言がどういう話の内容だったか?っていうのは私は分からないです。
※西岡氏
でも下手な日本語だ、と言うのは分かったんですよね?
例えば通りかかった人に日本語で話しかけたら、その人に外国人だというのがばれてしまうから隠れているのに、曽我さん袋に入れて逃げようとしているのに、通りかかった人に日本語で話しをするのは考えられないですよね?
☆曽我ひとみさん
考えられないです。
※西岡氏
朝鮮人工作員と、その人が北朝鮮の工作員の多分一味だと思うんですが、やはりそこの近くにお母さんが入れられていたんじゃないかなぁと思うんですけどもね。
☆曽我ひとみさん
私もそう思います。
※西岡氏
安明進さんに聞いたんですけども拉致については学校でですね。
拉致演習と言う授業があると。
袋にどう入れるかとかですね、そういうことを演習で実際にやってみるんですけども。
その時に同じ小船に乗せて連れて行っても、お互いに絶対に気配を感じさせないようにするというのが原則だと。
そういうやり方を習うんだと、言っていました。
だから曽我さんは気配は感じなかったけれどもしかし言葉が聞こえたということは、近くにお母さんがいて同じその木製の船だった可能性がありますけども、それに乗せられていたのか?
そうすると乗り移るときにですね、袋に入れられたまま乗り移ったんですか?
☆曽我ひとみさん
はい、そうです。
そのままです。
※西岡氏
すると周りは分からないですよね?
☆曽我ひとみさん
全然分かりません。
※西岡氏
小船の中に誰がいたのか分からないですよね?
☆曽我ひとみさん
分からないです。
※西岡氏
それでいつ袋から出たんですか?
☆曽我ひとみさん
小さい船に最初乗せられてしばらく行って。
まぁ、しばらくと言うのはどれくらいの時間なのか、私自身も良く分かりませんけど。
それで船よりももっと大きな船に移されて、中に小さい部屋ですけど戸も付いてて。
※西岡氏
何がついてた?戸ですか?
☆曽我ひとみさん
うん、でその部屋の中に入れられて、そこで袋出してもらった。
※西岡氏
どのくらいの大きさの部屋なんですか?
寝られるくらいですか?
寝られない?
座るくらい?
☆曽我ひとみさん
そうですね、ちょっと足を伸ばせるくらい。
※西岡氏
窓とかは付いてますか?
☆曽我ひとみさん
付いてないです。
※西岡氏
じゃあ真っ暗?
電気もついてない?
☆曽我ひとみさん
電気はついてなかったような気もしますけど・・・
※西岡氏
一人でそこに入れられた?
☆曽我ひとみさん
そうです。
※西岡氏
怖かったでしょう?
☆曽我ひとみさん
怖かったですね。
自分でも何が何か全然分からないっていうか、どうなってるんだろう?
ただただ怖い。
どこに行くんだろう?誰なんだろう?
そのことだけを必死に考えてました。
※西岡氏
戸は上についてるんですか?
前についてた。
そこに入れられて、そこではお母さんのことは全く分からないんですね?
☆曽我ひとみさん
そうです。
※西岡氏
そのあと清津に着いたのが次の日ですか?
☆曽我ひとみさん
次の日の夕方です。
※西岡氏
丸一日近くですね?
☆曽我ひとみさん
はい、そうなります。
※西岡氏
(拉致されたのが12日の午後)7時で、夕方5時くらいに着いたんですね?
その時計で見たんですね?
☆曽我ひとみさん
はい、見ました。
※西岡氏
ということは、22時間くらい乗ってたわけなんですね?
☆曽我ひとみさん
そうですね、はい。
※西岡氏
揺れました?
☆曽我ひとみさん
そんなには揺れませんでした。
天気も結構良かったので。
夏場ですからそんな海も荒れてなかったと思う。
※西岡氏
同じ日には市川修一さんと増元るみ子さんが拉致されているんですよね。
鹿児島からだから清津じゃなくて南浦に着いてるわけですけども。
船で24時間くらい連れていかれたのかなぁ?と思うわけですけども。
そのとき、じゃあ、なにかお母さんのこととか、あなたたち何なの?と聞いたでしょう?
袋から出された時?
☆曽我ひとみさん
聞きました。
勉強しに行くんだと。
※西岡氏
勉強しに・・・だって勉強しに行きたくないと言ったでしょう?
☆曽我ひとみさん
(少し笑いながら)言いましたよ、もちろん、はい。
※西岡氏
勉強しに行くんだと日本語で言われたんですか?
☆曽我ひとみさん
片言の。
※西岡氏
同じ女性?
☆曽我ひとみさん
はい同じ女性です。
※西岡氏
片言の、つまり日本に侵入したスパイが帰っていく可能性もありますよね。
勉強しに行く。
それでお母さんのことは、その人は何て言ったんですか?
☆曽我ひとみさん
お母さんは、まぁ日本に、日本にって言うか、佐渡にいると。
※西岡氏
袋から出された時に、お母さんは佐渡にいると。
食事は出されたんですか?
船の中で。
☆曽我ひとみさん
そうです。
※西岡氏
おにぎりか何かですか?
☆曽我ひとみさん
なんか、ご飯と漬物だったような気がします。
※西岡氏
船酔いしたでしょう?
何がなんだか分からなかったでしょう?
真っ暗で。
☆曽我ひとみさん
そうですね。
船酔いって言うか、私結構船は強い方なんですけど。
船酔いと言うよりはいったいそばで何が起こってるのか?
急に何かこんな暗い狭い部屋に入ってたりして。
さっきまで一緒に話していた母も見えないし。
なんかもう自分自身でも何が起きたのか全然分からない。
そんな感じです。
※西岡氏
扉を開けようとしてみても開かない?
☆曽我ひとみさん
開かないです。
※西岡氏
で、24時間。
それで港に下りて、そこでもお母さんの事を聞いたんですか?
☆曽我ひとみさん
聞きました。
同じ答えで。
※西岡氏
佐渡にいると。
そのあと清津から平壌に行って、めぐみさんに会われるわけですけど。
そのあたりのことで差し支えの無いことをお話くださいませんか?
そこでもお母さんの事を聞いたとか、他の日本人の事を聞いたとか。
☆曽我ひとみさん
清津に着いたのが夕方5時くらいでした。
私のこの時計で見たら。
ちょうど日付も付いてる時計だったんで、あぁもう1日が過ぎてるんだな、というのがそれは時計を見て自分自身で分かりました。
※西岡氏
8月13日の午後5時ですね?
☆曽我ひとみさん
そうです。
それでその晩は、今思えば招待所になるんだと思います。
※西岡氏
清津の招待所ですか?
☆曽我ひとみさん
そうです。
なんか肖像画が掛かってて、「この人知ってるか?」と言われたんで「いや、私はこんな人見たことありません」って。
北朝鮮っていう名前があることを私は知らなくて、「中国ですか?」と聞きました。
「いや、ここは中国じゃない」と。
「じゃぁどこですか?」
「北朝鮮だ」というので、「そんな国あったんですか?」と問いかけると向こうは半分怒りだしたような感じでしたから、その話はやめてと言う感じで。
※西岡氏
金日成の肖像画だったと言うことですね?
☆曽我ひとみさん
そうですね。
※西岡氏
その招待所に他の日本人、お母さんとかはいなかったんですか?
☆曽我ひとみさん
日本人はいなかったです。
※西岡氏
それは一階建てですか?
その招待所は?
☆曽我ひとみさん
その招待所は一階建てでした。
※西岡氏
そこに何泊したんですか?
☆曽我ひとみさん
2泊ですね。
その晩と次の晩。
次の晩の夕方にはもう平壌に。
次の日の朝方6時くらいに平壌に着いて。
※西岡氏
夜移動したということですか?
☆曽我ひとみさん
夕方ですね。
※西岡氏
車ですか?
☆曽我ひとみさん
電車です。
※西岡氏
電車で夜6時くらいに清津から列車に乗って、夜行列車ということですね?
☆曽我ひとみさん
そうです。
※西岡氏
他の人とは会わないように個室で移動したんですか?
☆曽我ひとみさん
個室だったような気がします。
※西岡氏
寝台車で寝てたんですか?座ってた?
☆曽我ひとみさん
いえ、寝てなかったような気がします。
※西岡氏
すると13日に着いて、14、15ですか?
平壌に着いたのは?
☆曽我ひとみさん
15日の朝です。
ちょうどお盆じゃないですか?
あぁ、お盆だなぁと。
それで平壌に着いたと。
※西岡氏
15の朝に着いたと。
☆曽我ひとみさん
向こうでもその日はまぁ、お祭りでもないですけど、まぁ色合いがあるんですよね。
※西岡氏
独立記念日ですよね?
☆曽我ひとみさん
そう、そうです。
まぁ朝方早かったんで、車の通りも無く静かなところだなと。
着いた時には平壌って言う場所がどういう場所か、私も全然知りませんでしたし。
※西岡氏
そこでまた招待所に入れられたんですか?
☆曽我ひとみさん
そうです。
※西岡氏
でめぐみさんと一緒になったんですか?
☆曽我ひとみさん
そこの場所ではありません。
※西岡氏
違う所に?
☆曽我ひとみさん
うん。
そこで、15日16日17日まで一人でいて、その後8月の18日です。
※西岡氏
その時その招待所にいてお母さんのことは何も聞かなかったの?
☆曽我ひとみさん
聞かなかったです。
※西岡氏
他の日本人のことも?
☆曽我ひとみさん
他の日本人がいるっていうことすら、その時は分からなかったですから。
※西岡氏
そしてめぐみさんと一緒になったんですね。
☆曽我ひとみさん
はい。
※西岡氏
めぐみさんのことで覚えていることを佐渡でもお話いただきましたけど、覚えてることをここでもう一度ご紹介していただけませんか?

☆曽我ひとみさん
すごく絵が上手で、一緒になって一ヶ月くらいした頃だと思うんですけど。
紙に鉛筆で写生って言うんですかね?
手の形を描いてくれて。
※西岡氏
曽我さんの手を描いてくれたんですね?
☆曽我ひとみさん
そうそう。
ですごく上手で、私が日本に来るまでずっと大切に持ってました。
※西岡氏
日本には持って帰ってこなかったんですか?
☆曽我ひとみさん
持って帰って来なかったです。
※西岡氏
残念ですね。
☆曽我ひとみさん
本当に今思うとすごく残念なことがあります。
で、いろんな博物館を見て回って観たんですけど。
めぐみさんはやっぱり美術が好きだったみたいで、歴史博物館とか革命博物館とか、いろんな博物館を一緒に観て回ったんですけど。
その中で美術博物館はもう一回行ってみたいなぁと、めぐみさんはそう言ってました。
私はあまりちょっと美術に興味も無かったんで、私は「どっちでも良いよ」って感じで。
招待所の中ですから、中々自由に外に出ていろんな所を見るっていうことができなくて。
だから一度外に出て、そういうところを観る時は面白くても面白くなくても、なんか、開放感って言うんですかね。
そういうのがあったりして。
そういう時は本当に店に行く時とか、ごく少ないんですけど、そういう時間が二人とも大好きでした。
※西岡氏
普通は招待所で家庭教師みたいな人が来て二人で勉強するんですか?
☆曽我ひとみさん
そうです。
※西岡氏
朝何時くらいからどのくらい勉強するんですか?
☆曽我ひとみさん
朝、そんなに早くは無いんですけど、まぁ起きて食事をして、それから9時くらいから勉強を始めて。
チュチェとか思想、そういう勉強。
それから日本との戦争がありましたけど、その時の英雄たちの活躍ですか?
そういうのを紹介したような本。
だからそういう本を沢山読んで、あなたたちもこういうふうにしなくちゃいけないんだよ。
こういう生活しなくちゃいけないんだよと、教えられたと言うか。
※西岡氏
本って日本語の本ですか?
☆曽我ひとみさん
いえ違います。
朝鮮語です。
※西岡氏
朝鮮語で勉強させられたんですね?
☆曽我ひとみさん
そうです。
そういう勉強とか、基本的にはそういう勉強でしたけど。
でまぁ午後からは庭しか散歩する所が無かったですけど、庭で散歩したり。
ちょっと広い招待所なんかでは運動とか縄跳びとか、まぁ出来たんですけど、狭い所だと外に出てもほとんど庭が無いと言う、そういうところもあったりして。
※西岡氏
つまり転々と移ったということですか?
☆曽我ひとみさん
そうです。
※西岡氏
ひとつの所にどれくらいの長さいるんですか?
☆曽我ひとみさん
う〜ん、必ずしも決まっては無いです。
まぁ一ヶ月とか三ヶ月とかそんな感じです。
※西岡氏
金賢姫の本の中に洗濯も出来ない女子高生がいたと招待所のおばさんが言ったとかって書いてあるんですが。
それはめぐみさんのことじゃないか?とちょっと思ったりもするんですが、招待所の中では洗濯ってのは自分たちでするんですか?
☆曽我ひとみさん
おばさんがやってくれる時もありますけど、やっぱりある程度の物は自分で洗濯してましたし、アイロンも掛けてましたし。
※西岡氏
洗濯機はあるんですか?
☆曽我ひとみさん
洗濯機は無いです。
※西岡氏
洗濯板でやるんですか?
☆曽我ひとみさん
こう、洗面器に入れて水張ってただ手洗い。
※西岡氏
石鹸はあるんですか?
☆曽我ひとみさん
石鹸はあります。
※西岡氏
洗濯石鹸っていうんですよね?
粉石けんみたいの?
☆曽我ひとみさん
固形の物です。
※西岡氏
その時も他の日本人には全然会わない、めぐみさんだけ?
☆曽我ひとみさん
ええ、そうです。
※西岡氏
夜寝る時日本語で歌を歌ってたと聞くんですけどそれをちょっと教えてくれませんか?
☆曽我ひとみさん
やっぱりめぐみさんもまだ学生だったと言うか、中学生でしたし。
あんまりその頃流行の曲っていうより、学校でいつもいつも歌っていたような童謡とか、そういう歌の方が多かったです。
※西岡氏
いつも歌ってたんですか?ふたりで?
☆曽我ひとみさん
いつもじゃないですけど、時々思い出したり寂しくなったりすると歌いました。
※西岡氏
故郷も歌いました?
☆曽我ひとみさん
はい、歌いました。
※西岡氏
あと拓也さんや哲也さんの事も話してたと聞くんですが、それはどんな話をしてたんですか?
☆曽我ひとみさん
兄弟、お父さんお母さんがいて、私にはとっても可愛い双子の弟がいるんだよと言って。
本当にいつも楽しく遊んでいた。
お姉ちゃんとして弟をすごく、特に一人じゃなくて双子だったんで、本当に可愛くてたまらないって言ってました。
※西岡氏
お母さんのことに戻りますけど、お母さんに手紙を書いたという話を聞いたんですけど、そのことをちょっと話てくれませんか?
書かせてくれといって書いたんでしょう?
☆曽我ひとみさん
私ですか?
はい、書きました。
※西岡氏
いつごろですか?平壌の招待所ですよね?
めぐみさんと一緒にいる頃ですよね?
結婚する前ですよね?
☆曽我ひとみさん
はい、そうです、結婚する前です。
ちょうどしばらく一緒にいて、ちょっと2〜3ヶ月離れた時期があったんですけど。
そのときに、私が一人でいるときに書きましたけども、その手紙が母の元には着いてないと思いますけど。
※西岡氏
それは佐渡にいると思って書いたというわけですか?
☆曽我ひとみさん
そういうふうに言われてたんで、もう、そういうふうに思うしかなかったし。
北朝鮮で母を見たとかそういう話も聞かなかったんで、この手紙を読めば元気でいると言うことが分かるかなぁと思って書いたんですけど。
日本にいるっていう母も、日本に来て見ればいませんでした。
と言うことは嘘で、24年間私はその嘘を信じていたということです。
※西岡氏
蓮池さんも地村さんもアベックでいて拉致されたけれども別々にされて、お互いに一緒にいたアベックの相手は日本にいると最初言われてたんですね。
結婚しろと言われて会っってみたらその人だった。
蓮池薫さんと地村さんがひとつの二人がペアで。
祐木子さんが増元るみ子さんと一緒で、富貴恵さんが田口八重子さんと一緒で、曽我さんがめぐみさんと一緒で。
二人一緒にするけど、一緒に拉致した人とは一緒にしない。
お母さんも誰か他の人と一緒になってたとしても会わせないのは、蓮池さんたちと同じですよね。
多分心理戦でさびしい思いをさせて、北朝鮮に忠誠心を持たせるようにという教育をしているわけですから。
親子が会えば一番ホッとするから。
結婚と言うのは彼らの都合で安定させるためにしたのかもしれないけれど、会わせるという必要を感じなければ、当然いても会わせないということは当然考えられますよね。
結婚したあとの生活について、ちょっと聞かせてもらえますか?
その時お母さんについてどう思っていたのか?
☆曽我ひとみさん
結婚してからは子供たちが出来たりして、一人でいるときよりは気持ちも少し和らいできたと言うか。もう子供も出来たんだから、もうここでずっと住むしかないのかな?という、気持ちはありましたけど。
でもその半面、絶対いつかは日本に帰れると信じていました。
それでだんだん子供たちが大きくなるにつれて、学校に通い始めて。
それで学校の友達と家族の話をしたり、おじいちゃんが遊びに来たよとかおばあちゃんが遊びに来たよとかそういう話になると、うちの子供たちはおじいちゃんの顔を見たこともないし、おばあちゃんのことを見たこともないし。
それでだんだん疑問に思って私に聞いてきました。
最初はすごくこういう事になって、話した方が良いのか、それともずっと隠した方が良いのか?
自分自身すごく迷いましたけど。
※西岡氏
子供さん、小学校の時ですか?
☆曽我ひとみさん
そうです、小学校の5〜6年生くらいですね。
でも家族だから、最後まで嘘って言うのは隠し切れないって言うか、ごまかしは効かないんで。
それだったらお互い信じて本当のことを言った方が良いんじゃないかな?と考えて、ゆっくりと話をしました。
そしたら子供たちも、子供たちなりに分かってくれて、今だからこそ絆が深まったのかな?と思っています。
※西岡氏
つまり佐渡、日本って言う所に住んでて、お母さんと一緒に歩いてて、無理やり連れてこられたというところまでハッキリ言ったんですか?
☆曽我ひとみさん
はい、言いました。
※西岡氏
それは子供たちにとっては信じてた祖国がひどいことをしたと言うことですよね?
ちょっとショックだったんじゃないでしょうかね?
☆曽我ひとみさん
そうですね。
すぐには理解できなかったと思います。
でもそれもだんだんだんだん時間が過ぎて、自分たちも大きくなっていろんな考えをすれば、誰が間違っているのか?っていうのは、私が言わなくても子供たちは分かってくれましたし。
※西岡氏
で、お母さんのことも子供たちに言ってたんですか?
佐渡にいる、あなたたちのおばあちゃんはこんな人だよって。
☆曽我ひとみさん
はい、言いました。
この時計の話もしましたし、隠してることはほとんど無いです。
※西岡氏
そしていつも私いろんなところで言うんですけど、月や星を見ながらいつ帰れるか?と思っていたと。
☆曽我ひとみさん
その話なんですけど、向こうにいた24年間の間にも日本から来る代表団って言うんですかね?
いっぱい人が来ました。
もちろん私が直接会ったわけでもないですけど、テレビではどこの党の人が来たとか、どこを訪問しましたとか。
そういったのがニュースで流れるんで、また日本の代表団が来たんだなぁ?
今度は何か良い知らせがあるかなぁ?
それも一人二人じゃありませんでした。
沢山の人が来て、それも1日2日でもう次の日には帰ってしまって、あぁまた何にも無かったんだ。
やっぱりこういうふうにして連れてこられたと言うのを、知らなかったのかなぁと。
日本のなかでどういう運動があるのか、私たちには全然分からないし。
ただただ、日本の代表団に会って「一緒に連れて帰ってください」と、言いたいと思ったのは何度もありました。
だけど、そうすることも出来ず、ただただ、我慢。
この次は、この次はと、ずっと我慢してきました。
夜になれば日本でも北朝鮮でも空には月、星。
見るといつも佐渡が頭の中に浮かびました。
そしてそれと同時に、お母さんのこと、いつも夜、月を見ながらいつになったら日本に帰れるんだろう?
誰か助けに来てくれる人はいないんだろうか?と、いつもいつも思ってました。
※西岡氏
日本の国会で拉致のことが認められるのは1988年ですから。
その後は日本の政治家は拉致のことは分かってたんですよね?
分かってる人が、北朝鮮に行って何も取り上げなかった。
その間、曽我さんはいつも月や星を見ていた。
残念ながらそういう事になりますよね?
☆曽我ひとみさん
(消え入りそうなほど小さな声で)そうです。
だからまだ日本に帰って来れない人たちのことを思うと、本当に心が痛いです。
私の母もそうです。
もう73です。
今の日本なら80、90って言ってもまだ元気でいられる方が一杯います。
向こうにいる人、日本で待ってる人。
本当に一秒一秒が大切です。
その大切な時間を本当に皆様方のお力で、皆が日本に帰って来て、笑顔で生活出来るようにお願いしたいと思います。
※西岡氏
最後に聞きたいんですけど、日本に帰ってくる事が出来た2002年までに、お母さんのことやめぐみさんの他に日本人のことを知ろうとはしましたよね?
お母さんいるかもしれないと思ってらっしゃったわけですし。
その日本人のことについて何か聞いてることがあれば、ここで話せることがあればお話してください。
☆曽我ひとみさん
日本人って言うか、(北朝鮮に)行った当初ですけど、ちょっと遠くで後姿を見たとか、少し話して日本人がいるというようなそういう話は耳にした事はありますけど、直接その人に会ったとか、そういうことも無かったし。
まぁ遠くで見たことはあるんですけど、その人がじゃあ誰か?って今言われても。
※西岡氏
男性ですか?女性ですか?
☆曽我ひとみさん
男性も見ましたし、女性も見ました。
行った当初ですけど。
※西岡氏
それ以外は分からなくて、結婚した後はそういうところからも離れて。
☆曽我ひとみさん
ほとんど外部との接触も無いと言うか。
そういう人たちとは違う場所で結婚してからは生活してたので。
※西岡氏
後姿を見たのはいつですか?
一回だけですか?
☆曽我ひとみさん
行って何日かしてからですね。
平壌に行ってから。
※西岡氏
めぐみさんに会ってから?
☆曽我ひとみさん
会った前ですね。
会う前。
※西岡氏
二人ですか?
後姿?男と女?
☆曽我ひとみさん
男と女ですね。
※西岡氏
歳は?わからない?
☆曽我ひとみさん
まぁ、若いとしか。
後姿しか見てないし。
※西岡氏
もしかしたら増元さんと市川さんだったかもしれないですね。
同じ時期だったし。
☆曽我ひとみさん
ちょっと分からないです。
※西岡氏
ありがとうございました。
(大きな拍手)
【西岡力副会長のお話】
今の話で少し補足しておきたいんですけど、北朝鮮が曽我ミヨシさんについてどう言ってるか?
お配りした資料の一番下にですね、北朝鮮側の言ってる主張が書いてあります。
日本政府に対して北朝鮮が言って来てることはですね。
まずひとみさんは、78年の8月12日に特殊機関工作員が、身分隠し及び語学教育の目的で現地請負業者、括弧して日本人に依頼し。
現地請負業者、括弧して日本人に依頼して引渡しを受けて連れてきた。
日本人の現地請負業者に依頼したんだと言ってる。
で、お母さんについてどう言ってるか?
母・ミヨシについては承知していない。
特殊機関工作員が現地請負業者から引渡しを受けたのは、曽我ひとみ一人だけ、と言ってる。
しかし、今曽我さんに詳しく聞いたように、襲ってきたのは3人の北朝鮮人なんですね。
一緒にボートに乗って行ったんですから。
お母さんと一緒に襲われたわけです。
もしも日本人の請負業者があると言うなら、その人の名前を出してもらわなくちゃ困りますけども。
日本の中で地下組織が無いわけじゃないですから。
それについて北朝鮮は明らかにする義務があると思いますけども。
しかし曽我さんの場合は3人の工作員に襲われてすぐ近くにあったボートに載せられて、そのままその工作員も一緒に女性の工作員と一緒に連れて行かれたんですね。
請け負い業者が入らないんですね。
なにかさっき聞いたように車に連れて行かれて隠れ家に連れて行かれて、そして迎えが来て引き渡されたと言うならその説明も一理あるかもしれませんけども、全くの嘘です。
一緒に襲ってるんですから。
ですから日本政府も曽我ミヨシさんも拉致被害者だと認定しているわけです。
認定している拉致被害者について、北朝鮮は承知していない、と今言ってるんです。
じゃあお母さんどこにいるのか?ということですよね。
北朝鮮にいるときは佐渡にいると言われ、帰ってきてみたらいなかった。
説明するのは襲った側がしなきゃいけないわけですね。
何回も私たちは言ってるんですけど、北朝鮮は拉致したのは13人だと言ってるんですけど、その13人に曽我ミヨシさんは入ってないんですよ。
一緒に襲われた人が入ってないわけです。
こんな馬鹿なことがあるか?てことですね。
北朝鮮側が説明する責任を果たしていない。
曽我ミヨシさんの場合はここに並んでいる家族会の人たちの、2002年9月17日以前と同じなんですよね。
あの時は、金正日が拉致を認めるまでは、拉致をしていないと。
北朝鮮にいないと、でっちあげだ、認承知していない、と言ってたんですね。
しかし、居たんですよね。
拉致を認めたわけなんです。
でも曽我さんのお母さんのミヨシさん、そして東京の三鷹で警備員をやっていた久米裕さん、そして今回認定されました田中実さん。
日本政府の認定でも3人については知らないと言ってる。
こんなことは絶対に認められないと、と言うふうに思っています。
ご家族が帰ってきて、まだ落ち着かない。
ジェンキンスさんもアメリカにいるお母さんに会いに行きたいとか、いろんなことがありますが。
しかしそれだけではなくて曽我さんの問題は半分しか解決していない。
曽我ミヨシさんが帰ってきてないということは、曽我さんの家族の悲劇は半分しか解決していないんだと。
言うことを強く強く訴えて続けていきたいというふうに思っております。
ここにいる皆さんと是非曽我ミヨシさんを救出しようではありませんか。(大きな拍手)
ぜひですね、この資料をいろんな人に見せてください。
北朝鮮の言ってることと、曽我さんが国連の人権委員会に出したことがこうも違ってるんです。
これだけ見ても何が正しいのか?と言うことが分かってもらえると思います。
承知していないなんて言ってることは、それこそ日本人が全て承知していなければならない。
もっともっと日本人は怒らなくてはならない。
と言うふうに思っています。
では今日は曽我さんのお母さんは絶対助けなくちゃいけないという意味で、鹿児島からも熊本からも、それから兵庫からも家族会の人たちが東京に出てきて、「曽我ミヨシさんを救出するぞ!集会」に参加しています。
一言ずつ今の話を聞いて感じられたこと、最近考えていることなどを言っていただきたいと思います。
横田代表からお願いします。
【横田滋家族会代表のお話】
(拍手)
私は曽我さんが日本に帰国される2ヶ月か3ヶ月くらい前だと思いますが、救う会新潟が佐渡で集会を開いた時に参加しました。
そして佐渡を案内してくれた時に、真野のところで「ここで県立病院の若い看護婦さんがいなくなったんだ」と言うことを聞きました。
その時お母さんの話は聞かなかったような気がするんですけど。
そして外から入った場合、湾が入り組んでいてちょっと入ればすぐ隠れることが出来るし。
陸の方から見てもちょっと中に入れば非常に分かり難い所って言うので、隠れるには都合の良いところというふうに言ってました。
曽我さんとめぐみは一緒に暮らしたことがあったわけなんですが、やはりめぐみにしても誰も日本人がいないところで初めて自分よりちょっと年上の、比較的歳は近いんですけど、ちょっと年上の人が現れたと言うことは非常に心強く思ったと思います。
そして曽我さんからはこれまで何回かお手紙頂きまして、めぐみの誕生日、と言うことは曾我さんが行かれてちょっと後ですかね。
めぐみは10月ですから。
その時も誕生日の様子なんかも教えていただいたんですが。
その時は近くの所にドライブをして、それから家に帰ってきて、魚や肉や野菜無い物はないって言うほどのご馳走を作ってくれて食べたということ。
そしておばさんがケーキを焼いてくれたんですけど、それでも「お母さんだったら、もっと美味しい物を作ってくれたのにね」、と言ったということを聞いて。
招待所のおばさんと言う人は親切な人だったと思いますし、一時かも知れませんけど幸せな時代があったのかな?と感じましたし。
それは曽我さんに心から御礼申し上げます。
逆に曽我さんの方からもめぐみを世話することによって、ある程度気がまぎれたんじゃないかと思いますし。
二人が暮らしてたと言うことは本当に良かったと思っています。
【横田早紀江さんのお話】
今日は本当に曾我さんありがとうございました。
いろいろと本当にどんなに怖い想いと、考えられないような苦しい想いをなさってきたんだな、そして、お母様がまだ見つからないと言うことが、どんなに心に残って毎日過ごしていらっしゃるんだろうと思います。
めぐみと、‐ほんとに不思議なことなんですけれど‐そのような中でめぐみと巡り会ってくださって、そして、もっとちょっとめぐみが幼かったら、どんなにか気が狂うような毎日だったと思いますけど、ひとみさんに出会ったことで、『あー、良かった』という想いがしたんだと思いますし。
そしてその中でお話しくださったように、私達がいろいろテレビでみているような、飢えている人達の姿とか見ていると、『どんな生活しているんだろう』と言う想いをしていたことが、少しは、まぁいろんなものを頂き、いろんなお話しをしあいながら暮らしていたんだなということで、ほんとにひととき、ほっといたしました。
ほんとにお世話になったこと、有り難く思っています。
一日も早く、めぐみちゃんも、そして他の皆さまも、曾我さんのお母さんも、必ず、日本が、国が挙げて、本当に本気で探し出して連れ戻さなければと思っています。
よろしくお願いします。(拍手)
【有本明弘さんのお話】
みなさん、こんばんは。(拍手)
曾我さんのお母さんの救出のためにたくさんお集まり頂きましてありがとうございます。
問題は、みなさんごよく存じのように、あの国は、どんな証拠を突きつけても馬耳東風で受け流してしまう、それに対して我が国は何も出来ない、こういうような状況が家族会を結成してからもう8年もなりますが、ずっと続いているのであります。
そう言うことに関して、第一回小泉さんが訪朝して以降、話し合いだけでは向こうに通じないというので、制裁をしなければならないということで自民党の先生方、野党の先生方、安倍晋三さんを頭にして、制裁法案を加工(可決の言い間違い?)してくださいました。
そうした中で、いざ制裁をかけるというような局面になってきて、小泉さんの行動がちょっとおかしくなって、もうあの国に制裁をかけられないような状況が、今現在作り出されております。
それに対して我々は『制裁を施行せよ』と、小泉さんに迫っているわけですが、これが果たしてどういうような結果になるのか。
私達はこの主張を曲げずに、皆様の協力を得て、力強く小泉総理に『制裁をせよ!さもなくば引退して貰いたい』と、そういう気概を持って、政府に迫っていきたいと思いますので、今後ともいろいろ私達のために協力をお願いして、挨拶と代えます。
ありがとうございます。(拍手)
【有本嘉代子さんのお話】
こんばんは。
有本惠子の母でございます。
本当に先ほどからの曾我さんのお話しを聞いておりまして、本当に月や星を見てそう思ったって仰っていましたけど、私も、日本の国から空を見て、本当にそう思ったことがあります。
『惠子は今頃どないしてるんだろうな〜』と思って、やはり空を見て星を見て月を見て『帰りたいな〜』と思っているんじゃないかなと、そう言う気持ちはずっとしていました。
だから、何とかして私達の元気な間に、救い出してやりたいという気持ちでいっぱいです。(拍手)
それはみなさんのお力によって、きっと良い結果が出ると思いますので、ど〜か、これからもみなさまご支援くださいますようによろしくお願い致します。(拍手)

【横田拓也事務局次長のお話】
皆様こんばんは。
めぐみの弟の拓也と申します。
本日、曾我さん本当に、お話し頂きましてありがとうございました。
被害者本人でありながら、辛いお気持ちであったと思います。
そして家族に対して、国民の皆様にこうして、公の場でお話しになるのは本当に辛いことだと思いますけれども、逆にそれは私達にとってほんとに大きな武器になりますし、感謝の気持ちを改めてお伝えできればというふうに思います。(拍手)
今曾我さんの方からのお話があった〜当時拉致されたときのお話しですけれど〜袋に入れられてから小さい船に移って、しばらくして大きな船に乗って、その中の小さな部屋で初めて袋からでだというお話しでありました。
スパイ工作というのは、おそらく、するまでも周到に計画されて、した後も周到に証拠を湮滅しながら引き上げていくと言うことが、やり口、これ常套手段だと思います。
こうして何もわからないまま、拉致をされて、わからない時間だけが過ぎていくということは、このやり方というのを私達は、もう一度深く認識、理解して行く必要が今後はあると思います。
先程来お話の中にもありましたし、これまでも私達の活動の中でもご紹介している点でもありますけども、相手というのは、幸せな、明るい家族から引き離す相手であり、そして、美しい日本から、一方的に、強制的に、暴力的に拉致してしまうテロ国家であると、こういう事を、やはり、私達、相手がどんな相手なのかと言う事を改めて強く認識していく必要があるんだと思います。
そして、北朝鮮というのは、この拉致問題においてもそうですけれど、最近になっては特に必要以上に核の脅威を煽って地域の不安定化を煽っている相手であります。
これはもう、拉致の対応に不誠実であると共に、こういった核の問題を武器にしてる相手というのは、明らかに日朝平壌宣言に違反しているという事は誰の目から見ても明らかな事実でありますから、(拍手)やはりここは日本政府、特に国家の責任者である小泉総理がですね、国の意志を持って『あなた達はもう違反をしているのだから、私達日本は経済制裁を発動するんだ』と言うことを言って頂ければという風に思います。
(拍手)
私達の気持ちはひとみさんと一緒であります。
そしてミヨシさんを救い出す気持ちには変わりはありません。
みんなが一人残らず、政府の認定している方、していない方も含めて全員が帰ってくる事が出来るまで、私達も叫び続けますし、皆様方も変わらぬご指導、ご支援をお願いできればと思います。
(拍手)
【横田哲也さんのお話】
みなさん、こんばんは。
哲也でございます。
今曾我さんの方からお話しがございましたけれども、日本の代表団が北朝鮮を訪問して、結局何もないまま時間が過ぎ去ったことに非常に落胆感を感じたというふうに仰られましたけれども。
もし今日この映像を北朝鮮で拉致された被害者の方々が見ているんであれば、是非私達のこの気持ち、
『決して、一秒たりとも忘れたことはない。いつもあなた達のことを気にかけている』
と言うことを感じて欲しいと思います。
で、来週22日でいよいよ小泉首相が再訪朝して丸一年がたつわけでありますけれども、全くと言っていいほどこの拉致問題に進展がないことに関しまして本当に、憤りを感じております。
二十数年前に領海を審判・領土に侵入し、つまり明らかに主権を侵害されたにも関わらず、怒ることなく、それとむしろ反対の米支援をする。
再訪朝の時にはたっぷりと時間が有ったのにも関わらず、早々に時間を切りあげて帰ってくる始末。
今回の実務者協議で、姉とされる遺骨を出してきたのでありますが、偽物とわかっても日本は、抗議=制裁という手段を講じない。
本当に、この問題を解決しようとしているのか?と疑ってしまう現実であります。
よく政治家のある方が仰っていましたけれども、敵は北朝鮮でありますが、むしろ内なるこの日本に敵はいるのではないかと私達は本当に感じるところであります。(拍手)
そういうこの問題(解決)を阻もうとしている者に対しては、私達は厳しく糾弾していきたいと思いますし、皆様におかれましても、大きな声を挙げて、批判・非難をして頂きたいと思います。
我々の国は主権国家でありますので、要所要所の大事なところでは国家意思を主張しなければならないのですが、そう言うことをしないと、諸外国からは北朝鮮以上に不思議な国と思われているのかもしれません。(拍手)
まぁ、それが今回の中国や韓国においても反日運動に見られるように、『ま、日本なんて適当にやっておけばいいや』と言う姿になると思いますので。
この拉致問題に関しては、総責任者である小泉首相が国家意思を明確に打ち出すことによって、諸外国にも認められる一人前の国家になると思っておりますので、是非、早急に経済制裁を発動して貰いたいと思います。(拍手)
曾我さんをはじめ、帰られた五人の方々には、今以上に、もう空気のような本当に自然な環境に、更にうち解けて過ごせることを本当に改めてお祈り致します。 (拍手)
【飯塚耕一郎さんのお話】
田口八重子の息子の飯塚耕一郎であります。
本日はこちらの方への来場が遅れてまことに申し訳ありませんでした。
私個人としてもやはり、今の現状の、(あまり言いたくはないんですけれど)日本政府として、何故この問題を解決できないのか。
何故、日本としての正しい姿勢=相手が悪いことをしているんだから、こちらとしては怒るべき事は怒る。
当然向こうに要求すべき事は要求する。
つまり要求でも何でもなくて、只、ある姿に返して欲しいと、そう切実に一人の人間として願っているだけなんです。
それにもかかわらず、現状の政府の方は、なかなか経済制裁の発動も行って頂けません。
それはほんとに真に悲しいことでもあり、悔しいことでもあると思います。
私は個人のことを言わせて頂ければ、やはり曾我さんと同じく母を拉致されていますので、且つ、私には母の記憶がないので、一分でも一秒でも早く母の顔を見たいと思っております。
その為には、やはり皆様のこれまで通りのご理解とご協力とご支援を頂ければと思います。
以上です。
【市川健一さんのお話】
こんばんは。
鹿児島からきました市川です。
曾我さんが1978年8月12日、私の弟も同じ日に、るみ子さんと一緒に吹上浜に行って、同じ日に同じ時刻かはわかりませんけど、夕方から夜にかけて拉致されております。
ほんとに船で連れて行かれた時の、曾我さんの心境を聞いて、『怖かったんだろうな、どんな思いだったんだろうな』と思うと、なんか・・・ねぇ・・・
ほんとに金正日の指令によって、残虐非道な拉致が行われて、被害者はほんとに青春をズタズタにされたんですよね。
本当に日本にいたならば、いろんな夢を追って、一生懸命、日々を過ごしていたとも思います。
それが一転して残虐非道な拉致にあって、未だに現在も、ならず国家に抑留され続けている訳なんです。
私達家族も、我が子、我々が兄弟と(引き)割かれて、ほんとに今でもずっと二十数年、苦しみ続けております。
昨年実務者協議が行われた時に、あの、北朝鮮というのはおざなりとしか言いようのない姿勢ですよね。
別人の遺骨を出されて、『対話と圧力』を盛んに言われているのが小泉総理です。
いつ圧力をかけるのか?
また対話にしても、北朝鮮に拒否され続けられていますよね。
ほんとに話の出来ない相手に、また誠意のない相手に対しては圧力を持って、制裁するしかないと思います。(拍手)
小泉総理がどうしても制裁せざるを得ないところまで持って行くには、皆様方の力が必要なんです。
どうか私達に力を貸してください。
よろしくお願いいたします。(拍手)
【斉藤文代さんのお話】
みなさんこんばんは。
熊本からきました松木薫の姉です。
曾我さんの苦しい胸の内を今日話して頂き、ほんとうに辛かったと思います。
お母さんも絶対元気で北朝鮮のほうにいらっしゃると思います。
また私達の家族全員、元気で向こうで帰りを待っていると思います。
只々、私が毎日毎日思っているのは、ほんとに向こうの国で、『病気をしないで、絶対にみんなが助け出すから、帰ってくる(まで)、これまで病気をしないで待っててちょうだい』って、こればかりを毎日毎日思っております。
もぅ、ホントにあの国は、まぁ、何と言っていいのか本当に、私達一言で言い表せないんですけれども。
私達、私の母もそうですけれども、全員全員みんなで、笑顔で迎えてあげられるように、只々『病気をしないで、絶対皆で助け出すから待ってて頂戴』と思います。
みなさんどうぞ力を貸してください。
よろしくお願いたします。
【増元照明事務局長のお話】
増元です。さっきも市川さんも仰ったように8月16日に一緒に連れて行かれた姉のことを思い出してしまいましたけれども。
私も南浦に行って、おそらく、佐渡から清津までの倍ぐらいかかったようですね。
うちの長女、平野(フミ子)が祐木子さんから聞いたところによると、南浦にあげるときも、全然からだが動かない状況で、足腰が立たない状況で、抱え上げられたという事ですから、相当長時間、恐怖の中で、精神的にもたぶんボロボロだっただろうなと言うことを思い出してしましました。
今日、昼間、安倍さんの所とか、議連の総会で一緒になって話をしたんですが、今曾我さんのお嬢さんお二人はは新潟のほうの大学に通っていらして、もう日本語はぺらぺららしいです。
1、2年で、「すごいな〜」と私は思っていますけれども。
ほとんど不自由がないと。
高野市長が前にいらっしゃいますが、そうやって仰っておられました。
それだけやっぱり、若いから吸収がいいのかな〜と思っているんですが。
私がもうちょっと英語がしゃべれれば、良い影響があったのかなと思っているんですが。
先々週の25日から、一週間ほどアメリカに行ってきました。
いろいろと政府関係者にお会いしてきたんですけれど、政府関係者はみんなこの拉致問題というのを全て認識しています。
以前に比べるとほとんどの政府関係者が日本人拉致問題というのが大きな問題であるという認識は持っていますが、今現在は、アメリカとしては、六者協議を再開したいという思いがあるようです。
でも「北の対応を見ているととてもフラストレーションがたまっている」というふうに言っていましたので、もうそろそろ我慢の限界でしょう。
おそらく、もう6月以降までは待てないという状況ですから。
ただ、武力攻撃はないと私は、思っていますけれどね。まずそれはあり得ないと思います。
で、アメリカと言うところは、非常にいいところで、ジェンキンスさんもパスポートが出ればお母さんの所にいかれると思うんですが、ノースカロライナ、良いところだと私は、思います。
行ったことがないのですけれども。
佐渡もいい場所でしょうけれども、家族で向こうに行って、向こうで住みたいと言われたら困ると私は思っているんですけれど(会場、笑い)是非日本に帰ってきて頂きたいと私は思っています。
日本という国は良い国です。
だけどもアメリカも良い国なんですよね。
ですから惑わされないで日本にちゃんと戻ってきて頂けるように、高野市長お願いします。
【飯塚繁雄副代表のお話】
みなさんこんばんは。
田口八重子の一番上の兄で飯塚と申します。
日頃から何かとご支援頂きましてありがとうございます。
今日は曾我さんの集会と言うことで、曾我さんのお話をさきほどから伺っておりますと、やはり私達の家族、被害者については、全く同じ想いで、長い間我慢して頑張って、「いつか迎えに来てくれるだろう」と言うような想いは他の被害者の方々たちも全く同じであろうかと思います。
私の妹にすればですね。
例の大韓航空機の話から結構長いんですけれども、やはり「子供をおいてきたんだ、早く返してください」というような願いがしょっちゅうあって、向こうにも訴えってきたんですが、それもままならないと。
今私が思うに、(先ほどから)【日本の団体がきて、迎えに来てくれそうだけれども帰ってしまった】と言う話、これは何回も見てたり聞いてたりしてると思うんですね。
『いつかは迎えにきてくれるだろう』という気持ちがあると思うんですが。
今も、私達、願わくば、
『ほんとに元気で。私達もこういう活動をやってるんだ。もう少し待ってくれ。必ず迎えに行くから』
ということが少しでも伝われば、向こうに行っている皆さんが、『よし、もう少しだ頑張ろう』という気持ちになってくれると思うんですが、今まではそう思っていてもなかなか日本が動かないと言うのも現状ですし、今現在もそう言う状態にもあります。
言ってみれば、嵐の前の静けさと言う感じもしますけども、やはり、この静けさがいつまでも続いても困る。
まぁ、北が出してきた今の報告ですと『日本こそ、捏造したものを出している』ということを言って、そのまま日本は何にも言って来ない。
『あ、これで片づいたんだ、日本はチョロイ』というふうに思っているかもしれません。
ですから、あそこは全てですね。
ウソの固まりの国ですから、国全体が捏造国家ですから。
そういう意味では『きちっと向こうの状況を踏まえ、研究し、戦略を立てていかなければいけないな』と思うんですけれども。
やっぱり、『日本はこういう問題を抱え国民全体が怒っているぞ』と言うことをぶつけていかなければ、向こうは動かない。
日本が黙っていれば黙っているほど(北朝鮮は)得になるわけですから。
このままずるずると終わりにしたいと、まぁ狙いでしょうから。
確かに今、向こうはいろんな経済的な面も含めて、困っていると思うんですけれども、更に我々国民の声、あるいは政府の声を大きくして向こうに強いメッセージを与えなければいけません。
だいたい、今の現状、おかげさまで国民の皆さんは7,8割方『けしからん、経済制裁でもやれ』という声がたくさんありますし。
いろんな拉致議連の方々、救う会の方が全てがですね。
『これに徹する、もうこれで走ろう』と。
国会の先生方もおおよそそう言う感じになっています。
ですから、この問題の解決の外堀を埋め、内堀を埋め(た)。
但し本丸の人が決断が出来ないという状態にまで、今なっていますけれども。
この経済制裁については、『事務的には出来る準備が出来ている』という話も聞いています。
あとは『GO』だけだと。
その『GO』を言わすために、我々もっともっと、力強いアピールをしながら総理のケツを叩くということをこれからもやっていきたいと思います。
どうもありがとうございました。
【佐藤勝巳救う会会長のお話】
全国協議会の佐藤でございます。
曾我さん、今日はどうもご苦労様でした。(拍手)
家族のみなさん方から、「国民のご協力をお願いします」と、全員の口からでましたが、その結果、今情勢がどうなっているかと申しますと、4月24日の日比谷公会堂の集会、ご案内の通り2000人の座席のところ6000人が集まりました。
これをみてですね。
北朝鮮の金正日政権は、「小泉総理を相手では、国交正常化をするのは困難だ」という判断したようです。
これひとえに国民の、具体的には日比谷に6000人があの時期に結集したというその成果の表れであります。
どうもありがとうございます。(拍手)
私達はまぁ、「政府頑張れよ」ということで、署名活動をやってきて、家族会の皆さんと救う会などなどなどが一緒になって、500万署名を集めることが出来ました。
この種の問題で500万というのはやっぱりものすごい事だと思います。
結局ですね、ここ8年近く運動をやって参りまして、政府を動かしてきたのは、国民の皆さんのお力以外の何者でもないという風に私実感をしております。
従って、みなさんと一緒に運動を進めていけばこの問題は必ず解決をできる。
北朝鮮をして「小泉さんではダメだ」という判断を持つまでに追い込んできました。
そう言う意味では、みなさんと一緒に確信をもって頂きたいと思います。(拍手)
もう少し頑張れば、たぶん私は拉致の解決に展望が開けてくるだろうと思います。
国連安保理に北朝鮮の核問題で制裁案が議論されるのは6月を過ぎてからというふうに、そんなスケジュールが想定されます。
アメリカの方も、もう「話し合いとか6者協議とか言っておってもダメだ」という判断が大勢を占めつつあると、増元さんからもお話しがありましたし、安倍晋三さんからもそう言う話を、今日昼、伺いました。
ですから、全体の流れとしてはいわば、「圧力をもって解決をする以外にない」というふうに、国際的流れが変わってきていると。
一生懸命それに反対しているのが、韓国の盧武鉉政権であり、中国であるというようなことがはっきりして参りましたので。
まぁ、そこらへんの国際的な情勢の流れをしっかり見極めて、私達もそれに対応できるような運動をやっていきいたいと考えております。
何よりも、国連安保理で核の問題に議論が始まりますと、今のままですと、日本の拉致の問題は片隅のほうに追いやられる可能性があります。
つまり二国間の問題です。
日本と北朝鮮の拉致は問題ですから。
核の問題というのは、これは世界の安全に関わる重大問題と言うことになってきますから。
ここしばらく、我々は一生懸命に頑張って、小泉総理に国家意思として、制裁を、たとえそれが低いレベルのものであっても、発動させておかないと、安保理で核で議論になったときに、拉致問題は本当に隅に追いやられることにもなりかねないと。
そう言う意味では短期的には楽観できないという情勢にあるというふうに判断をいたしております。
家族会も救う会もこれから全力をあげて、日本が単独で拉致の問題で制裁を課していくと。
あるいはその他、我々が繰り返し厳しく言っておるのですが、北朝鮮の国会議員が日本の国内に6人住んでおって、この国会議員が自由に北朝鮮と往来をしていると。
拉致をされた人間は30年近く、何ら解決をみないと。
こんな馬鹿なことを許しているおく国、政府、これはあり得ないことでありまして。
まずこの人達の再入国を止めてしまえ、と。(拍手)
外国人の場合、我が国から出て行くのは、これはもう勝手です。
これはもう自由です。
しかし再び入ってくる、再び戻ってくる為には、法務大臣並び外務大臣の許可を要するということが法律で決まっておりますから、再び帰ってくることを認めなければ、彼らは出たかったら勝手に出て行けば良いわけです。
しかし日本への入国は認めないと言うですね。
少なくてもそれぐらいの毅然たる態度をとらなければ、どなたかがさっき発言しておりましたけど、それはもう日本は舐められるに決まっているのです。(強くきっぱりと)
そういう態度をとって拉致問題を解決しようなどと、そんなことあり得ないんです。
つまり、4.24のあの大集会のあと、二日後、26日、我々3団体の代表は、細田官房長官に決議文を持っていった。
その時の我々のほうから指摘したことは
「総理大臣は対話と圧力だと言っている。
対話は去年の12月から切れているではないか?
それ以来圧力は何も加えていない。
実態としては何もしていないと言うことなんだと。
何もしていないのに、どうやって拉致問題が解決するというのか?
細田さん、説明しろ」
ということです。
しかし官房長官は最後まで我々のその問いに対しては答えることはありませんでした。
つまりそういうような、まぁ言うなれば、腰の引けたと言いますか、訳のわからない。
国民は70%以上が制裁発動を望んでいると。
あの、24日には6000という大観衆が詰めかけているというのに、まぁ、政府ではないんです。
小泉総理が発動しないというところが問題なんで。
もう一度みなさん方にお願いしますけど、首相官邸、小泉総理に向かって制裁発動の要請をですね。
メールでも、手紙でも、はがきでも、FAXでも何でも結構です。
是非ともやって頂きたい。
お願い致します。
今日はありがとうございました。
『最後にもう一度、曽我ひとみさんのお話』
『西岡氏より、今後の予定など』
※西岡さん
先ほど曾我さんが日本人の後ろ姿をみたという話はちょっと大事なことだと思うので、もう一回言える範囲で良いのでお聞きしたいんですけれども。
つまり、平壌に着いて、めぐみさんに会う前、78年の8月15日以降何日だか覚えていらっしゃいますか?
☆曾我ひとみさん
16日か17日。
※西岡さん
16日か17日。どういうところでどういう風に見たんですか?
☆曾我ひとみさん
その時、遊園地の近く。
※西岡さん
遊園地の近くで後ろ姿を?二人?一緒にいた二人?
☆曾我ひとみさん
そうです。
※西岡さん
それが日本人だとわかった理由は何?
☆曾我ひとみさん
別に、あれなんですけど、その時ほんとはこう会ってはいけないというようになってたみたいで、周りにいた指導員がすごくあわてていたんで。
私の勝手な想像ですけども、もしかしたら私と同じような形で来た人なのかな〜?と。
そうじゃなかったら、別に指導員があわてる理由もないだろうし。
そういうことで。
※西岡さん
年格好は覚えてますか?
☆曾我ひとみさん
若いです。
二人ともね若いです、二十歳?
※西岡さん
ありがとうございました。
時間は午前午後?
☆曾我ひとみさん
午後だったような気がしますけれど。
昼間だったと思います。
※西岡さん
ありがとうございました。
2人。
増元さん達はすぐに一緒にされていないでしょうし、蓮池さん達も、地村さん達も別々に男女されていましたから。
そうすると、別の人がまたいたのか?
すでに一緒にされていて、夫婦にされていたり、会わせることが出来るようになっていた特定失踪者の人か、あるいはまだ明らかになっていない人がいたのか?そう言う可能性が。
☆有本明弘さん
何百という人がかいるんやから、そりゃもう・・・
※西岡さん
今後のことをお話しして終わりたいと思います。
万景峰号がついに又入ってくることになりました。
保険にちゃんと入っていると言うことを認めるということで。
それも政府が認めた保険会社ではない保険会社なのに、(入港を)認めてしまったと言うことがありまして。
もちろん、特定船舶入港禁止法案があるのですから、それを発動すれば、万景峰号は入ってこれないんですが、5月18日に入ってきます。
私達は家族会と救う会と拉致議連で新潟の埠頭で抗議集会をします。
是非参加できる方は(参加してください。)
あるいは国交省に電話してください。
「なんで、こんな事認めたのか」と。そして官邸に「なんで万景峰号はこんなに自由に入ってこれるのか」と。
「めぐみさんや曾我さんのお母さんは帰ってこれないじゃないか」と抗議の声をあげて頂きたいと思います。
それから田中実さんが(拉致と)認定されましたが、連続集会で6月9日第二木曜「田中実さんを救うぞ東京集会」を開きます。
田中実さんの家族は今出られる方がいらっしゃらないんですが、田中実さんを高校時代に教えていた恩師の先生がいらっしゃって田中さんのことについてお話しして頂けるんじゃないかと。
それから、救う会兵庫のメンバーがきて田中実さん事件について詳しく説明してくれる予定になっています。
6月9日6時半から開場は元に戻しまして友愛会館の大会議室です。
それから、田中さんの拉致認定がされましたが、田中さんとほぼ同じ、あるいは田中さんよりもっと確実ではないかと思われる小住健三さんという方がいます。
実は小住健三の名前で、北朝鮮のパクという工作員がパスポートをとって、何回も出国しているんです。
そしてそのパクという工作員を日本の警察は指名手配したんです。
つまり拉致犯人がわかっていて、指名手配までしているんです。
海外に逃げてしまったんですが、小住さんはいないわけなんです。
原さん拉致と同じ形ななんですね。それなのにまだ認定されていないんですね。
函館出身でいらっしゃるので、北海道で、6月に、できれば5日と思っています。
まだわからないんですが、6月中に一度北海道で「小住健三さんを救うぞ集会」救う会北海道と一緒にやろうと思っています。
家族会も救う会も全力を尽くして小住さんのことを訴えていきたいと思っております。
そして、6月24日になります。
4月24日に国民大集会をした理由はご承知のとおり、12月24日に日本政府が官房長官の談話を通じて北朝鮮に対して
「迅速で誠実な対応をしなさい。それをしないと厳しい対応をする」
と制裁の予告をして4ヶ月だということで、何故しないんだという意味で4月24日(国民大集会)をしたわけですが、6月24日になりますと半年になります。
半年というのは日本語で「迅速」という範囲に入るのかと?
6月24日までにもしも制裁が全く発動されていないのであれば、我々も「座り込みも辞さない覚悟」と公言しておりますけれども、後ろのない覚悟で何らかの行動をとらなければいけないなと、今話し合っているところでございます。(大きな拍手)
ちょうど安保理事会の議論や核問題も、6月24日になると輪郭がだんだん出てくると思います。核問題の突風の中で拉致問題が吹き飛ばされないようにするためにも、佐藤会長が今申し上げましたように、拉致を理由とする制裁は絶対不可欠だと思っております。
その為に6月24日に向かっていろんな事をしていきたいと思っております。
まず5月24日、5ヶ月目に記者会見をするか、街頭行動をするかしたいと思っておりますけれど。
みなさんも24日ごとに思い出して頂いて、
「制裁を予告してもうすぐ5ヶ月が過ぎようとしている、何で制裁をしないんだ」
と、継続して政府に小泉総理に訴えていきたいと思っておりますので、ご協力をよろしくお願いします。(拍手)
今日はわざわざ、佐渡からお母さんの救出のために曾我ひとみさんがきてくださいました。
曾我ミヨシさんを、全力を尽くして私達の手で取り戻そうという決意を込めて感謝の拍手をしたいと思います。(盛大な拍手)
☆曾我ひとみさん
ありがとうございます。
これからも皆様方のお力をお借りして、みんなが元気で帰ってくる日のために一生懸命頑張ります。皆さんよろしくお願いいたします。
※西岡さん
ありがとうございました。
(会場より「曽我さん頑張って!」の声)
・・・集会終了・・・
このレポートはすべて「ぴろんさん」のテープ起こしによります。
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