【市川健一さん】
皆さんこんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
鹿児島から来ました市川修一の兄です。
皆様方にはいつも変わらぬ支援を賜り、心からお礼申し上げます。
ありがとうございます。
あの〜、私は標準語を話せないんです。(少しくすくす笑い)
鹿児島弁的標準語になりますので、あの、聞いてください。
弟修一が北朝鮮に、北朝鮮の工作員に拉致されて27年目になります。
私たち家族にとっては長く本当に辛く苦しい歳月で、現在もその苦しみは続いております。
1978年・昭和53年8月12日。
増元るみ子さんと鹿児島市内から1時間ほど行ったところの吹上浜海岸に
「夕日を見に行ってくる。10時までには帰ってくるから」
と言うことで、二人はね、楽しく出かけていきました。
ところがそのまま行方不明になってしまったんです。
当時、修一は(私の)妹、修一の姉夫婦のところに間借りをしておりました。
その近くに住んでいたのが増元るみ子さんです。
本当に二人は交際して3ヶ月ほどだったと思うんです。
その時初めて遠乗り・ドライブで二人は出かけたんです。
約束時間の前にそわそわそわそわし、本当にね、嬉しそうに「時間はまだか?まだか?」というような様子だったそうなんです。
妹はあの時のね、修一の嬉しそうな顔を思い出してはいまだに涙を一杯ためて、泣くんですよ。
本当にるみ子さんという人が好きだったんじゃないですかね?
本当に顔が、もう忘れることが出来ないと言っておりました。
で10日間ぐらい、10日間ですか。
延べ1500名の人たちが捜索してくださいました。
空にはビーチクラフト、海の沖には巡視船。
浜辺の近くでは漁船が網を引いてくれ、陸地では松林の中を4〜5人が並んで、殺されて埋められているかも知れないということで、皆棒を持って突きながら捜索しました。
私は3人きょうだいなんです。
一番下が修一で本当に家族みんなにね、可愛がられていました。
私と修一は9つの年の差があります。
ですから修一の生まれた時は私は小学3年生で。
で私小学生中学生、あの〜学校から帰ってくると修一を遊ばせるのは日課でした。
修一をね、背負って遠くで遊び呆けていました。
たまには「修一、お兄ちゃんは友達と遊びに行くから、ここにいなさいよ。ここから絶対動いてはいけないよ」と言って私は遊びに行って。
暗くなっても修一をそこに置いたのを忘れちゃって。
慌ててね、そこに行ったら修一は黙ってなにかひとりで遊んでいました。
私の言うことは何でも聞く修一なんですよ。
風呂にもね私はよく入れておりましたから、服を脱がせる時も面倒くさくて、足で思い切って後ろから踏んだんですよ。(会場より小さな笑い声)
そしたら手が抜けちゃって、でもそれでもね、少し泣いただけで我慢強い子だったですよね。
父も仕入れですとか配達の時なんかに修一を車に乗せまして、連れ回しておりました。
修一が高校時代だったと思うんです。
こっそりと運転させて練習させておりました。
本当に高校3年になった時はすっごく上手になってたんですよね。
今そんなことしたら大変なんですけども、まぁその頃私どもの田舎ではそんなに厳しい取り締まりは無かったからそれを利用して上手になったんだと思います。
修一は心根の優しい子で両親を大事にしておりました。
親の言うことは弟は何でもハイハイと聞いて、いろいろと手伝いをしておりました。
そのような弟がるみ子さんと忽然と消え、姿を消して。
大捜索にも関わらず、何も見つからず何も進展しないまま、捜索が打ち切られてしまいました。
日々悶々とした思いで月日が過ぎていきましたけども。
私が修一のことを思うとね、背負って遊ばせたそのことを思うともう涙が出てどうしようもないです。
兄である私がこういう気持ちですがね。
ですから親としては本当に身を切られる思いだったと思います。
それから失踪からですね、2年後だったと思うんです。
東京の新聞記者の方(産経新聞の阿部雅美氏)から聞かされ、その時初めて私は全国各地でアベック失踪事件が起きているのを知りました。
それまでは修一は神隠しにあったんじゃないか?
あるいはUFOに連れて行かれたんじゃないか?
そういうことばかり思っておりました。
富山県でのアベック未遂事件で残された遺留品。
これから見て、おそらく修一さんも北朝鮮に拉致されている可能性が強いと言われました。
以前から拉致、北朝鮮に連れて行かれたんじゃないだろうか?と言う疑惑はありましたけれども、この話を聞いて絶対に北朝鮮に拉致されたんだと、確信を持ちました。
なぜ?北朝鮮に連れて行かれたのか?
何の目的なのか?
全然分かりませんでした。
北朝鮮に拉致されたとしても、生きているのか?死んでいるのか?
本当に生死の分からない、これほど辛いものはありません。
弟の失踪の8月12日が来ても10月20日の誕生日が来ても、私のね家では一切、あの〜皆思ってるんですけども口には出しませんでした。
口に出していうとお袋が涙をいっぱい流し、また悲しそうな顔をするもので、本当にね長年、私の家は修一のことに関してはタブーになっておりました。
事件から17年後1995年、確か11月の終わりだったと思います。
私が父と店を代わり昼食を取っていたところ、電話が鳴りました。
韓国から国際電話が入ったんです。
以前私の家に取材に来られたテレビ局の記者の方(大阪・朝日放送の石高健次氏)でした。
「韓国へ亡命した北朝鮮の元工作員・安明進さんという方に取材をすることが出来た。
何枚かの行方不明者の写真を見せたところ、その中からこの男性は何回も目撃している。
おそらく修一さんは北朝鮮で生きている可能性が強いです」
と言うお電話をいただいたんです。
お袋がその時はテレビを見ておりましたですけども、私が修一と言う言葉を出したもんですから、サッとこっちの方を見ておりました。
私が電話を切ってから「お母さん、修一が北朝鮮で生きているよ」と言った途端みるみる大きな粒の涙を流し
「どこへねおってもいい、元気でいてくれればそれでいい」
本当にね、私もびっくりするぐらいの大きな大声で泣いておりました。
私も初めてね、母親があのように大きな声で泣くのを見て、本当に母親の愛というものは海よりも深く広いなぁと理解しました。
それからお袋の顔も笑顔が戻り、修一の話をしてもそんなに悲しい顔をしなくなりました。
本当に安明進さんの証言と言うものは家族にとっては本当に大きな光が、希望の光が差し込んだような思いがしました。
それから修一が帰って来ても困らないように、着れもしない20代の頃のスーツを取り出して虫干ししている母親の姿を見ると本当にたまらない気持ちですよね。(少し声を詰まらせ涙声で語る)
それからですね、まもなく家族会が発足したんです。
私は国は国民の生命を守る義務があります。
修一たちを全員を必ずいつかは政府が取り戻してくれるだろうと。
私は期待し、絶対に取り戻してくれるんだと、いつも思っておったんです。
ところが20年間政府は何もしてくれませんでした。
拉致被害者をね、完全に見捨てていたわけなんです。
皆様方もご承知のように2002年・平成14年、世論の力で小泉総理が訪朝されました。
日朝首脳会談が行われました。
私たちは外務省の飯倉公館に集められて、「5人生存8人死亡2人が未入国」と通知されました。
家族は個別に呼ばれ、私と妻とそれと長男3人に植竹外務副大臣より
「命に関わる問題です。
政府としては慎重に確認作業をいたしました。
ところが残念なことに修一さんは死亡されております」
その時私はね、死亡というのは頭に無かったんです。
最悪でも行方不明のままだろうかなぁ?おそらくその方が強いかなぁ?と思っておりました。
ところが死亡と言われたもので、頭の中真っ白になったんです。
そこで・・・あの・・・あの・・・植竹副外務大臣に
「修一は殺されたのですか?病死なんですか?死んだのはいつなんですか?」
と矢継ぎ早にね質問したところ
「何も分かりません」
ただそれを繰り返されるばかりでした。
妻も怒って
「何も分かりませんでは、私は両親にどう説明したらいいんですか?大臣・副大臣は知っていらっしゃるんでしょ?知っているんだったらここで教えてくださいよ!」
物凄い剣幕でね、副大臣に迫っていました。
長男も目を真っ赤にして妻の肩を抱いて
「お母さん、もういいよ、もういいよ」
ってね、一生懸命ね、母親の肩を抱いておりました。(このあたり少し声を詰まらせながら語る)
私はその時安明進さんの証言がありました、っていうのもそれも頭に全然無かったんです。
「親にどう説明したらいいのか。そうだやはり行方不明のままで知らせた方がいい。高齢の90歳の身だからどういうことか何かあったら大変だ」
そう言おうと思いましたらね、なんとちゃんとテレビで放映されておりましてね。
で私は心配して電話したら、家じゃあ妹が、
「一時はしょげ込んでいたけども、元気だよ。兄ちゃん大丈夫だよ」
と言ってくれてね、やっとそれで安心しました。
それで後で分かったんですけど、政府は死亡確認はやっていなかったわけなんです。
北朝鮮の一方的通知をそのまま私たちに伝えただけだったんです。
後日政府の訪朝団が訪朝し、北朝鮮側からの聞き取り調査を行いまして、私たちにその調査書と言うのを下さいました。
その内容を見てとても納得できる内容ではありませんでした。
1979年9月4日元山海水浴場で溺死と書いてありました。
私はえっ?修一は、あの私の田舎は私のときもでしたけど修一の時も小学校・中学校もプールが無く、また山間に住んでいましたからほとんど海水浴に行ったことが無いわけなんですよ。
で家族でも海水浴に行ったこともないし、修一が泳ぎに行ったことも全然聞いたこともありませんでした。
あぁ、これは嘘だな。
泳げない者がわざわざ海水浴に行くはずが無い。
それと9月4日、水は冷たいですよね?
その水の冷たい時期に海水浴するはずが無い。
それと元山海岸から緯度をたどっていくと東北の岩手県に当たります。
岩手県でも9月になって海が冷たくて泳いでいる人はいないですよね。
それなのに海水浴で死亡としてあるわけなんです。
元山海水浴場には台風も近づいていた訳なんですよね?
私には目撃証言者の安明進さんがいらっしゃいました。
1988年から1991年、あの〜修一をね、金正日政治軍事大学で何回も目撃しているわけなんです。
修一の特長なりすべて話されたこと、また赤いネクタイなんかも修一に間違い無いという証言も頂いておりましたから。
それなのに北朝鮮は拉致の次の年には死亡としているわけなんですよね。
本当に全てが矛盾と不自然な点が多く、とても信憑性があるものではなく、捏造と嘘に嘘を重ねるのが北朝鮮の常套手段だと思っております。
昨年5月22日小泉総理が訪朝されました。
私たち家族は10名の未帰還者、それから100人以上ともいわれる北朝鮮に拉致された可能性の強い特定失踪者。
この人たちの救出の道筋を立てて来られることを本当に心から強く切望しておりましたけども。
ところが総理は被害者の国・日本が、加害者の国・北朝鮮に対して、食糧支援の約束をなさる。
また国民の意思で成立した経済制裁法も発動しない、ということをね、約束されてこられたんです。
本当に唖然としてしまいました。
日本は北朝鮮から主権侵害・人権侵害され続けているのに、なぜ?
なぜ毅然とした態度で交渉が出来ないのか?
本当にね、情けない!腰抜け外交!日本はどうなっているんだ!と怒りがふつふつと湧いてきました。
日本人の拉致を指令したのは金正日なんです。
その金正日は自国民にも恐怖を与えて食料も与えずして、餓死させ続けている極悪の独裁者なんです。
だから日本政府がどんなに誠意を持って米支援しても、特定階層の人あるいは軍人などにそれがまわって国民のね、口には入らないんです。
だから祖国を捨てて脱北者がどんどんどんどん後を続いておりますよね?
独裁者には誠意は通じません。
独裁者の考えることは得か損だけなんです。
私たち家族は北朝鮮に対して経済制裁の発動をして欲しいと強く強く要請しております。
対話の出来ない相手にはもう制裁の圧力しかないと思います。
圧力と言っても軍事力ではありません。
経済封鎖でもありません。
北朝鮮の国民が困らない、金正日が困る人・物・金を止めればいいわけなんです。
それをね、総理は絶対やって欲しいと思うんです。
でなければ、ただ時間だけが過ぎ去っていきます。
私のね、両親はもう90歳なんです。
一刻でも早く弟に会わせたい。
私はその一念でね、気が張っております。
本当に時間が無いんです。
朝私は早く起きるんですけど、両親今日も元気で起きてきてくれるかなぁ?
それだけが毎日心配しております。
今父は足が痛くて、自宅と店は隣同士なんですけど。
私なんかが歩けば何歩かで店に着くのに、親父はそこまで来るのに30分も時間がかかるわけなんです。
本当に歩けば歩くほど足が痛い痛いと言ってね、ほとんど寝ているわけなんです。
あんまり寝ているとボケてしまいますんで心配しております。
北朝鮮の国民もね、金正日の独裁から解放されることを信じております。
皆様方もこの拉致問題を忘れないで下さい。
関心を持ち続けてください。
世論の力ほどね、強いものはありません。
5人の被害者、まずはその家族が帰って来られたのも世論の力です。
私たち10人の未帰還者、また400人以上と言われる特定失踪者、この人たちが全員が祖国の土を踏むまでは戦わなくてはいけません。
頼りにしているのはね、皆様方のね、世論の力なんです。
どうかね、私たちと一緒に戦ってください。
そしてね友達、友人なんかにこの拉致問題の話をしてください。
悪いのはね、金正日です。
よろしくお願いします。(拍手)
【市川龍子さん】
皆様こんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
いつもご支援ありがとうございます。
私は修一の義理の姉に当たります。
修一は48年の3月に隣町の県立岩川高校の機械科を卒業しております。
私たち夫婦が横浜から引き上げてきたのが47年10月なので、あまり修一とは長くは住んでおりませんでしたけども。
私の長男と、修一の姉に当たります孝子って言うんですが。
主人から(みると)妹ですね、修一からは実の姉に当たるんですけど。
その姉孝子の長男と私たちとの長男が初節句が同時期だったもんですから。
そのときは修一は臨時職員として働いていたと思います。
郵便局に働いていたんですが。
なけなしのお給料の中からですね、二人の甥っ子にガラス張りの大きな冑の置物ですか?
節句の、あれをプレゼントしてくれたことがあります。
修一にとっては本当に大変な出費だったと思います。
それでも可愛い甥っ子のためにと言うことで、修一が贈ってプレゼントしてくれました。
また母にはですね。
初ボーナスで、もう見たくないんですけどここに持ってきました。
修一が初ボーナスで母に大島紬ですね。
これをプレゼントしてくれたそうなんです。(大島紬の着物を広げて見せる。会場より「あぁ素敵」と言う声)
これは一度も母は袖を通しておりません。
もう見ると涙が出るからって言って。
ずっとタンスの中にしまってありました。
今日初めてですね。
取材の方がいらっしゃったので母が初めてこの紬を抱いたんです。
初めてです。
27年にして初めて胸に抱いた時、もう母は嗚咽でした。
もう本当にですね、酷だったかなぁと思ったんですがここに持ってくるということで。
母が初めて大島紬を手にとって泣いた時の姿は。
早く修一を早く連れ戻してやらなきゃいけないと言う気持ちがまた決意が、ずんずんと湧いてきたんですけど。(会場のあちこちですすり泣く声、以後最後まですすり泣き続く)

また私の長女が2歳の時ですか。
修一は、そのうちの女の子がですね。
本当の兄ちゃんがいるのに、修一のことを「兄ちゃん兄ちゃん」というんですね。
まつわりついて、その、うちの長女も修一になついて可愛がってくれていました。
拉致されてからほとんど修一のことを話すことも無かったんです。
さっき主人が言いましたように、本当に禁句でした。
修一に関することはですね。
うちはお店をしているものですから、スーパーの方に切り替えた時にですね。
新装開店をしたのが58年の7月なんですが、盆とか暮れとかですね。
今は下火になってますけども当時は本当にですね、忙しいお店だったんです。
かき入れ時なんかはですね。
鹿児島市内からわざわざから帰ってきて、レジに立ったり、またお客様を送っていったり。
田舎はよく砂糖が出るんですよ。
砂糖の進物って言うんですか?
砂糖が2キロくらい箱詰めで、その当時はその箱詰めもきれいに包装して売り出してましたので。
修一はその箱詰めをですね。
嫌とも言わずに、物凄い数で進物としてね。
砂糖とか進物類を包装してくれたのを、私は覚えています。
お店が国道沿いにあるもんですから、道路を横切る近所のおばあちゃんたちをですね。
お買い物してくださった荷物を、沢山の荷物をですね。
持って、一緒に道を横切って交通安全に気をつけてですね。
おばあちゃんたちの安全を確認して一緒に渡っていって、よくしておりました。
話が飛び飛びになりますけども、また母の話によりますと魚釣りが好きでですね。
近くに大隈湖ってあるんです。
その大隈湖とかですね、錦江湾の方に良く釣りにも行っていたよ、と言って母が見せてくれたのがこのリールなんです。(リールを見せる)
釣竿もあったんですけどちょっと長いから持って来れなかったんですけど、これも修一が帰ってきたら返そうと思っています。
ボクシングの時にあの、大きな袋詰めのものを下げ・・・なんていうんですか?(会場より「サンドバッグ」の声)
私知らないんですが、そのサンドバッグっていうんですか。
それをベランダにぶら下げてよく叩いておりましたね。
そしてあと鉄の塊のこっちとこっちの、(会場より「ダンベル、鉄アレイ」の声)鉄アレイ、それからバネになってるぐぃ〜んと伸ばすような、ああいうものをよく使って体を鍛えておりましたね。
目に浮かびます。
ボーナスと貯金をはたいてですね。
修一にとっては一世一代かと思います。
聞きましたら60万とか70万とか言ってましたけど、そんな豪華なステレオですか?
縦式に、あの当時は縦式にステレオを回すところがあって、なんかアンプがあってこう、なんか知らないけど機械がずらっと縦に並んだセットがありましたよね?
スピーカーも大きなスピーカーを4台そろえて、そしてここにこうしてですね。
LP盤って分かりますか?
ドーナツ盤って分かりますか?(笑い声)
レコードなんです、要するに。
CDとかMDとか知りませんからね。
そういうのを良くここにつけて(ヘッドフォンをつける仕草)静かに聴き入ってましたね。
今もLP盤とかドーナツ盤とかは金(かね)で出来たレコード差しって言うんですか?
若い方は知ってらっしゃらないと思います。
それが大事に置いてあります。
それも早く返さなきゃ、家が狭いです。(笑い声)
大きなですね、ガラス張りの書籍棚を自分で買ったんでしょう。
さっき言ってました妹孝子の敷地内に間借りしてたもんですから、そこにちゃんとあったんでしょう。
持って来ましたが。
その書棚の中には世界史とか日本史とか単行本とかいろんな本がね、ずら〜っと並んでるんです。
レジを手伝ってくれる時はいつもレジで本を見てたよ、と近所の方が教えてくださいましたけども。
そういう面もあって、目撃証言にもあったようにいつも片手に何かをね。
辞書か何か知りませんが、いつも何かを持っていた。
市川先生はチョン、チョンなんでしたっけ?
なんとか先生はいつも片手に辞書か何かを持っていつも静かに本を読んでました、寡黙な方でしたよ、といわれたんですが。
確かにそうだと思います。
確かに余り余計なことはしゃべりませんでした。
私は義理の姉と言うこともあったんでしょうが、またその時は修一は若いですから、恥ずかしさとか遠慮さもあったんだと思います。
私も当時はまだ若かったですからね。(笑い声)
余計なことはしゃべりませんでしたけども、本当にその通り寡黙な青年だったと思います。
でも同級生によると、今日はですねその同級生もここに来るのをですね。
楽しみにしていたんですけど、なんか議会が始まってどうしても出られない、申し訳ない申し訳ないといってですね。
今日は欠席しておりますけども。
その同級生が言うには、反面悪いこともしてましたよと教えてくれましたけども。
バイクで学校へ行くまでいろんな抜け道をしながら近道を通りながら、遅刻をしたりとかそんなこともしてましたよって、修一の一面を教えてくれました。
横浜からですね、鹿児島へ主人と一時帰省した時があるんですが、そのとき主人と父と修一とで霧島の方にドライブにいったときの写真があるんです。
これは私がたった一枚です。
修一と共に写った写真はこれ一枚なんですよ。(手帳から写真を取り出す)
これは私がいつも手帳の中に入れて持ち歩いているんですけども、私もミニスカートはいてます。(笑い声)
考えられないんですが。
高校2年生くらいだったと思います。
修一と父と主人とで霧島の方にドライブに行ったことがあります。
修一は母が30代後半の頃に生まれた子ですので、歳をとって出来た子は特に可愛い、まぁ子供に変わりはないんですけども、特に可愛かったんだろうと思います。
当時はお店が忙しくてですね。
母はいつも嘆いております。
「余りかまってやれなかった、かまってやれなかった」といっております。
でも子供たちのために一生懸命、本当に一生懸命あの働いていた母でしたね。
修一が社会人になってからですね、それはそれは本当に親思いの修一だったよって、修一の姉の孝子が言っておりました。
主人とは9つも歳が離れていますから怖い存在だったかもしれないし、話が合わなかったかもしれませんけども4歳違いの姉、孝子って言うんですけども。
「姉ちゃん姉ちゃん」と何でも相談していたと聞いております。
鹿児島市内に住んでいた、姉のところから修一はいなくなったんですけども。
当時は電電公社に通勤しておりました。
食事も姉家族と一緒にとっていたんですけども、今日のこの日にですね。
姉の孝子も「出席して語りたい」と言ってたんですけど、今病に伏せっております。
修一が北朝鮮にいると分かってから、母はですね、(昭和)60年だったですかね。
韓国の38度線の鉄柵の前でですね、言っても聞き苦しいかも知れませんけども。
鉄柵の前でですね、あらん限りの声で叫びましたよ?
「修一どこにいるの〜!顔を見せて〜!声を聞かせて〜〜!」
ってですね。
むこうの方では断髪的に号砲がなり響くんです。
聞こえるはずも届くはずも無いんですけども、それでも母は叫び続けました。
今にも鉄柵を乗り越えてですね、修一を探したい、連れ戻したい。
そんな心境だったんでしょう。
もう後を振り返り振り返り、空しく国境線38度線を後にして日本に帰ってきましたけども。
子を思う親の気持ちは何処の国でも本当に同じです。
気が狂ってもおかしくないぐらいの状況の中で27年過ぎます。
私だったら気が狂っておりますね。
よく耐えてくれていると思います。
ご存知のように2002年の9月17日、本当に私たちにとっては大打撃でした。
植竹(外務)副大臣に本当に食って掛かりました。
主人はちょっと穏やかって皆さんおっしゃるんですが、私はもう怒りがもう頂点突き抜けてるんです、本当。
だから植竹さんにも食って掛かりました。
「殺したんでしょうが!」
ってですね。
植竹さんに言ってもどうしようもないんですけど、それくらいどこに怒りをぶつけていいか分からなかったんです。
2002年10月15日ですか、5人の方は帰って来られました。
あのメンバーのなかに修一がいたらなぁって。
もしかしたら安倍さんの後ろから出てくるんじゃないか?
誰か一人降りてくるんじゃないか?修一が降りてくるんじゃないか?って。
そういうかすかな期待もその時ありました。
でも残念でした。
その時は帰国者の喜びの涙と、無念の涙が入り混じった15日でした。
いつも私が歌を言うんですけどもこれも皆様ご存知でしょうか?
どこに我が子がいるのかと 捜しましたよこの母は
すがる術ないしがらみで 涙こらえる忍冬(すいかづら)
星も凍てつく雪山に 母はひな鳥捨て置かぬ
腹を痛めた可愛い子を 命かけても連れ戻す
千里万里はいとわない 可愛い我が子に会えるなら
親子絆の赤い糸 手繰り続ける歯がゆさよ
これが地獄と言えぬなら 他に地獄がありますか
生きて子どもが帰るまで 望み捨てずに春を待つ
この歌があります。
本当に早紀江さんの心情、有本恵子ちゃんのお母さんの心情、うちの母の心情を本当に歌った歌だと思います。
でも安明進さんの目撃証言の後から、さっき主人が言いましたように母は修一の衣装箱を開けるようになりました。
毎年虫干しをするようになったんです。
今となっては着れる状態の服じゃないです。
センスも違いますし。
それでも毎年毎年、母は衣装箱の中から虫干しするようになったんです。
母はもちろんですけども、私たち夫婦も23歳のあの修一のこの顔しか私たちには思い浮かびません。
また私は自国民の救出に手をこまねいている日本国にあきれ果てて、腹を立てて、情けなくて。
拉致の実態を知ってもらうために横田代表たちと一緒にロスまで行かせて頂きました。
ロスの市民は怒っておりましたよ?
「それでも日本国か?日本国民か?どうしてあなたたちがここまで来なくちゃいけないんだ!」
と言ってですね、怒り狂っていらっしゃいました。
でも同情の涙、共感の涙に変わって、「ロスから修一さんたちを助け出してみせる」といってですね、固い約束もしていただきました。
ブッシュ大統領に3回手紙を書きました。
・助けてと頼みの綱はただ一人 三度(みたび)の便りに願いをこめて
本当に3回手紙を出しました。
それから自負かどうか知りません。
その、まあ、ブッシュの態度もちょっとこう、変わってきてるんじゃないか?と思ってるんですけども。(笑い声)
胡錦濤さんにも手紙を書きました。
でも中国に今馬鹿にされている状態ですよね?
これで日本国国家と言えますか?
私はこの後いつも主人に怒られるんです。
「お前は言い過ぎだ」と言われるんですよ。(笑い声)
「もう国のこと政府のことは西岡先生らに任せておけばいい」って言うんですけど、私は怒りが収まらないんです。
本当ですよ?
分かっていただけますよね?(拍手)
主人の父も90になるんです
ただひたすらわが子の帰りを待っているんです。
毎朝発する言葉はですね。
「お父さん、修一が帰ってくるまでは何としても元気な体で修一を迎えてやりましょうね」って言って。
自分で無農薬の野菜を作って食べていますよ?
お互いに食事に気をつけてですね。
お互いに二人で一人前だって言ってかばい合いながら、頑張っています。
30年同居しています、30年以上です。
もう手に取るようにわかります、私には。
もう切なくなってくるんです。
朝に夕な仏壇に手を合わせております。
母の背中もだんだんだんだん小さくなってきております。
食卓や部屋のあちこちとか庭の池の周りとかには、可愛い蛙の人形がですね、あちこちに置いてあるんです。
「修ちゃん帰る。必ず帰る」って私が全部、どんなちっちゃな蛙にでもですね。
もう何百個ってあります。
ちっちゃな蛙にも、手書きをしてですね。
その文句を入れて、あちこちに蛙が置いてあるんです。
最初この蛙を見たとき、母が泣き出したんです。
「泣くんだったら蛙引っ込めるよ、私は!」って私言ったんです。
そしたら
「いやそうじゃない龍子さん、このおどけた蛙の顔を見て、ちょっと慰められて笑みが出てくる」
って言ってですね。
泣き笑いをしております。
もう本当にもう私はたまりません、もう。
署名活動なんかでですね。
小さな子らが署名してくれたり、たどたどしい字で署名してくれたり、なけなしのお小遣いをポトンと入れたりしてくれます。
私はそんな子供たちが、子供や孫やひ孫がですね。
「安心して安全に遊べる日本列島にしてあげるからね、必ずするからね」って約束します。
それでなければ400人以上と言われてますが。
その400人が「日本人は目を覚ましてくれ!」って叫んでるんじゃないかな?って私は思ってるんです。(拍手)
るみ子ちゃんのお父さんが残念ながら亡くなりました。
私はるみ子ちゃんの(お父さんの)霊前で弔辞を読ませていただきました。
「お父さん、絶対に世界の世論を高めてるみ子ちゃんを助け出してみせるから、安心して逝ってね」
って、私は弔辞を読ませていただきました。
その通り今ボチボチとですが、北朝鮮の人権問題に世界が注視するようになっております。
なんとしてもこの独裁政権は打倒しなければ。
私たちは北朝鮮全体を打ちのめせって言ってるんじゃないんです。
むしろ北朝鮮の一般民衆を救ってやるのは今だと私たちは思って、この活動を続けているんです。(拍手)
今はですね、話は飛び飛びになりますが。
歩くことも困難になった父ですが私は車椅子を押してでもですね、羽田のタラップの下で修一を迎えさせてやりたい。
また母にはこの大島紬を着せてですね、修一を迎えさせてやりたい。
ただその一心で夫婦して頑張っておりますが。
いつも母が、私もお勤めしております。
お勤めの休みを返上して署名活動とかいろんなところに出かけて行きます。
母がいつも言う言葉は、
「気を付けて行ってね、頑張ってね、ご苦労さんね、お願いしますね、頼みますね」
って言って送り出すんです。
しっかり留守を守ってくれています。
本来ならば子や孫やひ孫に囲まれて楽しい余生を送っている歳です。
一日も早くこの母にですね、一刻も早くです。
母の胸に、病に伏せっている姉の胸に、弟修一を抱かせてやりたいただそれ一心なんです。
そして拉致被害者、特定失踪者、日本人全員の無事の帰国を、その日まで本当に皆さん今一度もう一歩、皆さんの声で世論の高まりで助けていただきたいと思います。(拍手)
短歌が好きなので詠ませてください。
これも聞かれたと思いますが、極寒の地でまた27年目の冬を迎えました。
・巡り来る凍てつく冬の到来に 断じて生き抜け春を信じて
・北の果て木々(木々だと思うのですがここだけはっきり聞き取れず)を偲びて
幾年(いくとせ)か 老いたる母のしわの重さよ
・故郷(ふるさと)に想いを馳せる弟よ 救いの手立てにいらだち募る
・遅々として進まぬ異国の話し合い 老いたる母に笑みの来る日は
・彼の国へ飛んで行きたい今すぐに 翼が欲しいと母の声かな
・老いていくわが身に鞭を打ちながら 愛しい吾子(あこ)を抱く(いだく)夢見て
・彼の国で助けを求める弟に 届けとばかりに声を枯らして
・またしても騙され続ける日本国 国家の誇り取り戻せ今
皆さんもう一度、今一歩ご協力お願いいたします。
ありがとうございます。(拍手)
【増元照明さんのお話】
西岡力副会長
こんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
今日せっかく増元さんに来ていただきましたので、この前ここでも話していただいたんですが。
祐木子さんから聞いている結婚の日付のことついてですね。
市川さんが79年の9月に死んだというのは明確に間違っているという情報がありますので。
そのことについて増元さんからちょっとお話をしてもらいたいと思います。
(増元氏壇上に上がる)
こんばんは。(「こんばんは」の声)
あの〜、結婚の日付けなんですけれど。
あれは第3回実務者協議が(平壌へ)行く・・・政府関係者、支援室・外務省が行く直前ですね。
家族会の皆さんが集まるときに、支援室の方から「こういう話があるですが、ご存知でしたか?」と言うことを言われました。
すなわち、祐木子さんが増元るみ子さんと一緒に暮らしていたのは79年の10月までなんです。
「そういう話をお聞きになっていますか?」と言うから、「それは知りませんでした」というふうに私は申し上げました。
私たちが祐木子さんに最初に会ったときはそのような事はおっしゃっていませんでした。
ただ「るみちゃんとは一緒にいました」
そして「るみちゃんは非常に朝鮮語の歌を覚えるのが早くて、裏山でよく泣いていました」ということを私は聞きました。
それが2002年の12月です。
2003年の5月に姉(=長姉・平野フミ子さん)が今度祐木子さんと会って、姉(=次姉・るみ子さん)はどうやって南浦に入ったか、南浦に着いた時に姉(=るみ子さん)がどういう状態だったか、そして北朝鮮での暮らしを聞いてたようですが。
姉(=フミ子さん)も「いつまで一緒に暮らしていたか?」と言うのは聞いてなかったようでしたので、本当にびっくりしまして。
「そういう話は知りませんでした」というふうに申し上げました。
第3回実務者協議で「北朝鮮サイドがもし結婚の日付を変えてこなかったら、この祐木子さんの証言をぶつけていいですか?」と言うから、「もちろん、どんどんどんどんぶつけてください」と申し上げたんですが。
家族の一応了解を得ないと使えないということを言っておられましたけど。
私は家族の了解というよりも、救出するために必要な日付であればどんどん使ってもらいたいという気持ちでおりましたので、そうやって申し上げたんですが。
その(日本側からるみ子さんと祐木子さんが)10月まで一緒にいたというのを聞いて、実務者協議の(北朝鮮側の)回答が4月20日というふうに最初言っていた結婚の日取りを7月20日に変えてきた。
でも10月まで一緒に暮らしていたというのになんで7月に変えてきたんだろう?と。
全然意味が分からないわけです。
どうして分かるような嘘を。
わざわざ4月20日の結婚日を7月20日といって、間違えて記述しましたとわざわざ言ってきたわけですよね?
意味が無いじゃないですか?
私たちにとってはいつ結婚したか分からないし、確定付けることも出来ないのに。
わざわざ7月20日と言って来た。
こちらサイドでは(るみ子さんと祐木子さんが)10月までは一緒だったから当然結婚してないという。
それまでは結婚してないという情報ですから。
全然意味が分からなかったんですけど。
こちらでよく考えてみるとこれしかないなと思ってるんです。
だいたい2002年9月17日以前、とにかく「8人死亡5人生存2人未入境」という、この方法で日本政府と決着をつけますというふうに金正日の許しを請うた。
で金正日は「それでいいですよ」という風に言って。
その今状況をずっと続けているわけですけども。
市川さんは9月4日に亡くなったといってる。
しかもその時には結婚してた、といってますので。
つまりそれ以前に結婚させておかなゃきゃまずい訳ですね。
10月以降に結婚しているというと、(北朝鮮が出してきた証言を)ガラッと変えなきゃいけない。
(西岡氏の声「海水浴を11月にしなくちゃいけない」)
向こうの証言、言ったことをガラッと変えなきゃいけないので。
横田めぐみちゃんについてはガラッと変えるだけの、多分金正日は許可をするんでしょうけども。
その他、田口八重子さんにしても私の姉にしても市川修一さんにしても、多分有本恵子さんにしても、いちいちそれを変えるっていう、今その一点集中は横田家ですから。
あの当時もそうでしょうけども。
ですから瑣末なことでいちいちまた金正日に「こうやってこうします」ということは出来なかったんでしょう。
ですからあのまま通さなきゃいけない。
9月4日に市川さんは死んだことにしなければいけない。
その前に結婚してたことにしなければいけないから。
祐木子さんが10月まで一緒に暮らしていたのは、当然北朝鮮は記録が残っているから知ってるでしょうけれども。
あえて7月20日に結婚した、ということにしたんじゃないか?と言う風に理解しています。(拍手)
【西岡力さん】
最初は79年の4月20日に結婚して、そして9月4日に海水浴で死んだと言ってたわけです。
市川さんについて言うとですね。
ところが昨年の11月に79年の7月20に結婚して9月4日に死んだと今は言っているわけなんです。
しかし、結婚相手のるみ子さんと祐木子さんは79年の10月まで一緒にいたと言っている。
結婚できないんですよね。(笑い声)
しかし自筆のサインがついてる結婚申請書があるんですよね。
自分でサインしたことになってるわけなんですね、二人がね。
それは全部デタラメだということ、なんですよね。
で、少しおかしいといわれたんで直してきたけども、やっぱりるみ子さんだけを直すわけにはいかなくて、市川さんのを隠してた・・・困ったんでしょうね、やっぱりね。
10月まで、10月の後半に結婚したとすると、11月に海水浴に行かなきゃいけない。(笑い声)
それにいくらなんでも気付かなかったのか?
ちょっと困るということになっちゃったんですね。
実は今日ですね、安明進さんが来ることになってたんですけども、ソウルでちょっと用事が出来て今日までにこちらに来れないと昨日電話がかかってきました。
残念なんですが。
実は彼から安さんからですね、市川さんについて詳しく聞き取りを私しておりまして。
それを本当はここで彼に話してもらおうと思っていたんですけど。
まずそのお話、報告からさせていただきたいと思います。
安さんは、ご承知のとおり1987年の3月に金正日政治軍事大学に入ったんですね。
その年の11月に大韓機爆発事件が起きて。
そして学校の中で金賢姫は我々の先輩だという噂が出て。
日本人に化けてたらしいと。
拉致された日本人が先生らしいという噂が駆け巡って、日本人に対する関心が高まるわけなんですね。
一方88年(87年の言い間違い?)の3月、安さんが入学した時にですね。
安さんよりも先輩の工作員たち。
特に、安さんは25期生なんですけども、11期生。
清津連絡所で実際に拉致をやっていた先輩の工作員たちが、「再教育を受けろ」という命令があって政治軍事大学に再入学するわけです。
昔は教育期間が2年ぐらいだったんですね。
安さんは6年コースなんです。
政治軍事大学もだんだんコースが長くなってきて、金正日は工作員教育を重視してたんですね。
現役の工作員だけれども教育期間が足りない、2年しか受けてないから。
もう一度学校に戻って再教育をしろ、と言われて。
それが実はめぐみさんを拉致したチョンという教官が、その再教育組だったわけです。
その先輩の工作員が戻ってきまして。
最初は再教育で学生と一緒に寮に入ってですね、授業受けてたんですけども。
もう歳取ってますからね。
15年くらい先輩なわけですね。
現役の工作員で拉致とかして来てる人たちですから、「何で学生と同じ待遇なんだ」と怒り始めたわけなんです。
で、授業もあんまり真面目に受けない。
で、大学当局は困っちゃって、教官的な地位もあげようということになって。
でも教育は受けさせなくちゃいけないから、だから学生の生活指導教官にしよう、と。
言って、新入生の班にひとりずつこう分けてですね、生活指導教官として配置して。
それで朝マラソンなんかをする時は、タバコふかして自分はやる気が無いと。
「ちゃんと走れ!」とか言う。
で授業は一緒に受けるということをやってたわけです。
安さんの班の生活指導教官が、チョン・スンホォン(あるいはスンボォン・スンウォンかも?)という。
チョンって一丁目二丁目の丁に順番の順に権利の権。
11期生、1954年生まれだったわけですけども、その人がめぐみさんを拉致した人だと。
丁度学校で大韓機爆発事件の話が話題になってたんです。
そして清津連絡所から実際拉致をしていた人たちが先輩で来てて、そして別々の教室だったら分からないわけです、話をしないけれど。
同じ寮で生活指導しているわけですね。
朝から晩まで一緒にいて食事もしながらいろんな雑談もすると。
その人たちが拉致をした人間だったんで、拉致の話題になった時は「俺がやったんだ」とかいう話題が自然に出てきたんです。
チョン・スンホォン教官が「自分は2回拉致に成功した」と。
「一人は歳をとった男をやった」と。
「この学校にはいない」と。
もう一人は「自分が拉致した女性が今教官をしている」と、「綺麗になった」と、「今度学校行事があるときに教えてやる」と。
いうふうに安さんたちに言っていたと。
そして別の班のペ・ドンホというですね。
その人は10期か11期くらいのやっぱり清津連絡所の工作員も、安さんとは別の班の学生に対して「自分も二回拉致工作に成功した」と、言っていたわけですけども。
清津連絡所が拉致を、対日担当で、そして70年代後半にそこに居た人たちですね。
拉致をやってたわけです。
そして今のが87年の暮れぐらいからの話なんですね。
87年の12月に大韓機爆発事件が起きて88年の1月に金賢姫が記者会見するわけです。
話題が出るわけです。
その年の10月の9日。
10月の10日ってのは労働党の党の創建記念日なんですね。
党の創建記念日で北側の祭日なんですね。
学校では行事があるんですけど、大体その日は休みにしますから、一日前ぐらいにあるんですね。
88年の10月9日に、本校の講堂があるんですね。
そこで記念行事が行われたと。
本校に当日いる全校学生と教官が参加すると。
学生席が前の方にあって、後ろに教員席があると。
学生も教員も皆軍服着てるんです。
工作員は皆軍服を着ているんです。
ところが私服の一団がそこにいると。
そしてそこに綺麗な女性がいたと。
さっきのチョン教官が「実はあれだ」と。
話をしてましたからね、「あの女性が俺が拉致してきた女性である」と話をした。
そこに実は市川修一さんに大変良く似た男性がいたんです。
ですから安さんが市川さんを見たのはですね。
まず一番最初はめぐみさんと一緒、88年の10月9日なんです。
88年の10月9日。
79年に死んでたらなんで88年にいるのか?と、いうことになるんですけども。
市川さんについては最初から自信があると言ってたんですよね?
言ってるんです。
増元るみ子さんについてはここで、ここで安さん言いましたっけ?忘れちゃった。
とにかく最近別の写真を見たらば、全身の写っている写真を見たらば足の形なんかで似てる人がいたと。
ただし市川さんと増元さんは、男女教官は別々に行動しているので、そこの中での行動で夫婦だっていうふうまでは分からなかったと言ってましたけど。
めぐみさんについてはチョン教官が本に書かなかったことで。
18歳の時とその後2回精神病で915病院に入院したと言ったと、その最初の時にね。
そしたら学生が「今はしっかりしてるじゃないですか?」って聞いたら、「今は全部直ったよ、昔の話だ」そういうことを言ってたわけです。
1988年の10月の話ですから。
そこで直っていたというふうに言ってたわけなんです。
チョン教官は自分が拉致した人なようなので、どうも病院にまで情報を取りに行ったようだと。
詳しいわけですね。
それに安さんも・・・ちょっとめぐみさんの話になっちゃいますけど。
病気の人を教師にするほど、工作員学校は甘くないと。
直ってなければ教師として使わないと、言うことです。
でまぁ、市川さんについて言いますとその後ですね。
その行事で安さんは、市川さんがいつも外国語二講座の代表として。
なんか表彰されたりする時は、代表で贈り物をもらっていたのを覚えている。
外国語一講座と外国語二講座というのがあって、外国語一講座は朝鮮人の先生がいて、外国語二講座に日本人の先生がいたと。
その代表がいつも市川さんだった。
市川さんは普通は日本人の教官は日本人の教官と団体でしか歩く。
一人で歩くと言うことは無くて団体で歩いてるんだけども、食事に行く時外国語一講座の朝鮮人の教官と話しながら歩いていたこともあったと。
言う風に覚えています。
安さんが政治軍事大学の中で教官として何回も目撃してるのが11人なんですね。
男6人女5人。
市川修一さんに大変良く似てる人。
それから女性では横田めぐみさんにたいへん似ている人がいたと、最初本で言ってたんです。
そのあと帰ってきた蓮池薫さんの顔を見て、あぁ、あの顔に間違いがないと。
大学生時代の写真を見た時は5分5分ぐらいだなと思って、ご両親にもし間違いだということを言ったら申し訳ないからご両親には言わなかったけど、日本の警察には似ている人がいましたと言ってたんだと。
帰ってきてあの顔を見て間違いがないと思った。
と言ってて、で、蓮池薫さん。
それから田中実さんに大変よく似ている人。
それから北海道から拉致された男性だと言われていた人。
で、まだ誰か分からないんですね、特定できない。
それからもう一人藤田進さんに大変良く似た人。
それからもう一人男性。
その人は刺青をしていたと、6人の教官がいるんですね。
女5人はめぐみさんとそれからるみ子さんに似てる人。
それから加藤久美子さんに似ている人。
それからあと女性が二人。
女性のうち一人は田中実さんと結婚していたようだと。
で11人。
それ以外に田口八重子さんに関する情報を聞いたり。
病院で古川了子さんと良く似ている人に会ったり。
工作用の放送局でタバコを吸ってる女性を見ている。
市川修一さんについて覚えてることで、本には余り書いてないことを中心に申しあげますと。
身長が165〜166センチくらい。
彼の記憶力は、工作員ってのはすごいんですね。
僕ら会った人の身長なんて分からないですけれども。
見たらばどういう特徴を覚えろと言う教育を受けるんですから、それがそういう風に見えたと言うんですけど。
それから90年に30代後半に見えたと。
外国語講座で表彰される時に、代表で賞を授与されていたと。
それからもうひとつですね。
学校の外国語講座の教官の事務所というのは、本部棟の2階の東側にあるんですね。
その後ろのほうに体育館があるんです。
体育館の2階に格闘技道場があって。
窓を開けると丁度、外国語二講座の教官室が良く見えたんです。
そこで格闘技の授業をやって休んでる時に、丁度高さが見下ろせるような形だったので、よく市川さんの姿を見ていたと。
それから講堂で行事がある。
講堂の上のほうに勝利号という政治軍事大学が船を持ってる。
それで修学旅行で日本に来るんです。
工作員が、卒業の。
その船員の事務所が講堂の2階にあって。
時々航海が終わると船員たちが、元々船員はゲンザン(文字不明)に住んでいるんけども、報告に来ていたと。
その時講堂の前のところで日本人の男性教官がタバコを吸いながら船員が出てくるのを待っていたと。
どうも日本の話を聞いたり、あるいは新しい何か物を頼んだり、そういうことをしていたようだと。
それでいつも船員たちが出てくるのを待っているのを。
また丁度講堂の前の階段のところと言うのは、安さんの寄宿舎からグラウンドを挟んで見えるわけです。
で寄宿舎の窓からそういうのを見ていたと、いうことがあります。
それからですね、今の話は本校なんですけどもね。
本校があってそして分校があるんです。
分校ってのは1対1での工作員教育をするところです。
本校はただ授業みたいなこういう風(集会の様子を指差す)にやるんですね。
大学と大学院みたいなものだとも言われてるんですけども。
6年制の工作員教育を受けて、その中で本当に選ばれた人が、今度は1対1の教育を受けて本当のスパイになって侵入してくる。
スパイの案内人になる人たちは6年制だけで終わり。
それから金賢姫みたいに普通の大学を途中で出た人は、本校に入らないで分校へすっと行くんですけども。
そういう関係なんですけども。
本校と分校の間をミニバスが運行されていて、そのバス停がキャンパスにあって、そこの前に市川さんはよく立っているのを見た。
いう風に言ってました。
オウ・ブウホウ教官というのがいるんですけども。
航海術のことですね。
工作船を航海して工作船に乗って日本に侵入する韓国に侵入するという、航海術を教える教官で。
この人も清津連絡所で、ずっと60年代70年代工作員をやってて、歳をとってたので引退して教官になった人、ベテランです。
実はそのオウ教官が「寺越武志さんを自分が拉致したんだ」と、授業中に安さんたちに言ってる人です。
拉致は「自分たちが元祖だ」と言ったんだそうです。
「60年代に能登半島で」って話をしたそうなんで、それはこの次寺越事件の時話をしますんで。
そのオウ教官の家は大学のキャンパスの中にある。
射撃場の下にあるんです。
そして射撃の授業があるとですね。
学生たちはその射撃場へ行くんですね。
射撃の授業に関わるとですね、アンパンとかお菓子とか沢山くれるんだそうです。
食べ物はすごく恵まれているわけですね。
お菓子とか間食物を沢山もらうわけですね。
それを一部持っていって、やっぱりね、キムチは食堂のキムチより家で作ったキムチの方がうまいから。
そのアンパンとか何かを持って行って、教官の家へ行って教官の奥さんから手で作った手作りのキムチと換えてもらうということをよくやってた。
で、教官も換えて来いって言うそうです。
自分のうちに食べ物、甘いものが欲しいわけなんですね、教官も。
射撃の授業の時にオウ教官の家に、航海術の教官ですけども、行ってたそうです。
あるときにですね1990年3月の昼。
射撃場からキムチをもらいにオウ教官の家に行った時、部屋の中に市川さんともうひとり日本人がいましたと。
夫人がすぐに扉を閉めたので何をしていたのかは分かりませんでした。
それからひと月も経たない1990年の3月か4月。
別の、オウ教官の横に住んでたスン教官って言います。
スン教官の家に行くと、キムチ置き場に日本製のカップラーメンがあったと。
それで教官にカップラーメンのことを、
「外国語講座のあの男がオウ教官の家で見ましたが、その男が持ってきたんですか?」
と聞いたんだそうです。
安さんが聞いたら、「うん時々来るんだ」と。
91年の8月か9月くらいのある夜、こんどは酒をもらいにオウ教官の家を訪ねたと。
オウ教官が酒などの倉庫を探してくれた時、そこから日本製のカップラーメンとソニー製のカセットテープレコーダーの新品が沢山出てきたと。
そこでオウ教官が次のように話した。
「知ってるだろ?外国語講座で行事のときによく前に出てくるやつ、家に良く来るんだ。このことを他で言うなよ」
というふうに言われたんだそうです。
なんでこのことを他で言うなよ、というのは安さんの解説によると、実はオウ教官は古手の清津の連絡所の教官ですから。
日本人拉致被害者のことを全体が自分が管理するみたいにしてて。
日本人は外貨ショップに行けるわけなんです。
で、その日本人を使って外貨ショップから物を買わせてるとか、日本人から外貨を巻き上げてるという悪い噂が立ってたんだそうです、学校の中で。
だから「俺の家に来てるというのを言うなよ」と学生に言ってた、ということなんだろうと言うことで。
90年の3月から4月と、それから91年の8月ですね。
その間に90年の7月か8月くらいにタバコを貰った。
映画を見に行けと言うのを暑くて・・・(聞き取れず)卓球台の横のところで会ってタバコを貰ったと、言う話があるんですけども。
セブンスターを貰ったと。
その横にいたのが藤田さんに似た人だった。
そのあとですね。
91年の7月か8月。
陸上訓練というのがあるんですね。
装備を重装備を持ってですね、山の中をずっと地方を回るんですね。
それが終わって帰ってきて、装備の銃とかなんかを点検をして、汚れを落としたりする作業をやって。
それで少し授業が無くて休みだったんですね。
寮の部屋にいた。
タバコが無かったんだそうです。
で、あぁ市川は日本のタバコを吸っていたと。
教官だったら朝鮮のタバコは配給になる。
あいつは朝鮮のタバコは余ってるはずだと思った。
こう窓を見たら、勝利号の船員に会いたくて市川さんたちがタバコを吸っていたと。
それで市川に貰いに行こうかと、学生同士で話をしたと。
でも結局行かなかったと。
前の時にもお前たちのせいで連れてこられたと、不愉快そうな感じで対してたので、そんな不愉快そうな態度をする人間に頭を下げて貰いに行くのは嫌だなと思って行かなかったと。
それが91年の7月か8月です。
そして一番最後に市川さんを目撃したのは92年の1月20日。
92年の1月20日。
実はですね、92年の1月20日に金正日政治軍事大学という名前に学校が変わるわけです。
安さんが入った時は金正日政治軍事大学という名前じゃなかったわけなんです。
朝鮮労働党中央委員会直属政治学校。
朝鮮労働党中央委員会直属政治学校という名前だったわけです。
直属政治学校と言うのは、本校と分校両方あわせて直属政治大学と言っていたんですけども。
92年の1月に本校が金正日政治軍事大学になって、分校が烽火(ほうか)政治大学になったんです。
烽火(ほうか)と言うのはたいまつの烽火です。
名前が変わる式があったんです。
その時にキム・ヨンスン労働党の書記も来て、ゴ・コクレツ作戦部長も来て、そこで金正日政治軍事大学の改称を記念する式典が行われたと。
そこに市川修一さんと、北海道から拉致された男性と、もう一人男で藤田さんじゃない男と、増元るみ子さんの4人が出席していたことを記憶している。
92年の1月20日です。
まぁ、以上が市川さんについて安さんが話していることです。
では後でゆっくり読んでください。(資料の束を隣に座る市川健一さんに渡す)
ですから79年の9月に死んだなんていうのは全くありえないわけですよね。
北朝鮮の方も結婚の日付を間違えちゃってるわけですね。
じゃあなんで79年の9月に死んだと言っているのか?と。
これは多分に安明進の証言を意識している。
安明進の証言を認められないんですよね。
安明進は拉致は金正日の命令で行われていたと言ってるわけですから。
そして金正日政治軍事大学と言うテロリスト養成学校があったと、言ってるわけです。
しかし金正日は拉致は知らないと言ってるわけです。
金正日の名前が付いてる学校は金正日政治軍事大学だけですから。
金日成っていうのが付いてるのは多いですけどね。
彼はですから工作機関のトップだったんです。
父親が生きてる時から工作機関のトップは金正日だったんです。
アメリカで言えば、CIAのトップだったんです。
1975年から、後継者になってすぐCIAのトップになったんです。
謀略テロ機関のトップになったんです。
拉致の責任者だったわけです。
75年以降工作機関が行なったことで彼の決済貰ってないものなんて、ありえない。
しかしそれは認められない。
拉致は認めるけれども、安明進の証言は認めない。
そうすると同じ6人アベックの中で、実は地村さんたちと蓮池さんたちは記憶がないと言ってたんですね。
本にも書いてなかったんですね。
市川さんとめぐみさんだけ見てると言ってたんです。
同じアベックで同じ時期に拉致されて条件は同じだと思うんですけども、その中で一番早く死んだというふうにされちゃったんです。
安明進の証言より、もっともっと早く死んでたのに、安明進の言ってることはおかしいんだと言いたかったんだろうと思いますけど。
結婚の日付とか間違えちゃって。
89年の9月とか言っておけばまだ良かったのに。(笑い声)
ずさんなんですよね。
今彼らが言ってることは、ここで何回も言いましたけども。
日本政府は北朝鮮の情報を証明するものは皆無であると言うことなわけですから、今は白紙なわけですね。
これだけの目撃情があるわけですから。
一回や二回じゃないわけですよね。
ただ、残念なのはですね、清津連絡所出身の亡命工作員はまだ一人もいないんです。
清津連絡所出身の人が誰か一人出てくればですね、情報の宝庫だと思うんですけどね。
今のところ韓国にいるのはゲンザン連絡所出身が二人いますけどね。
あとは陸上・・・・・韓国に出頭する・・・(聞き取れず)
でも生きているというのは間違い無くて。
祐木子さんが「あなたの知ってる日本人は子供が産まれた」と招待所で誰かに言われてるんですよね?
それは祐木子さんが知ってる日本人と言うのは、蓮池さんとそれから地村さんたち以外の人であれば、るみ子さんしかいないわけです。
るみ子さんが子供が産まれてれば、市川さんと結婚して子供が産まれているしかない。
言うことで、結婚の時期は北朝鮮が言ってるのとは違うと思いますけど。
結婚して子供がいるんだろうと。
増元さんのところに入ってる非公式の情報では二人という情報があるんですよね?
で、それが、まだ分からないでいるということですね。
ただ工作機関の中の幼稚園が二つあっただろうか?と思うんですね。
工作機関の中でめぐみさんと蓮池さんたち地村さんたちは、ひとつの幼稚園に子供をやってたんですよね。
招待所にいて幼稚園にやってたと。
市川さんや増元さんの子供がそんな歳も変わらなければ、その幼稚園に行ってないと考えるのはちょっと難しいですよね?
その幼稚園に関することであれば帰ってきた子供たちに、「クラス何人いたのか?」とか、聞くことが出来るんじゃないか?と。
まだまだ解明されていないことが多いなぁというふうに思って、今後も情報収集を続けていきたいと思います。
基本的に市川さんが死亡だとされたのは北朝鮮が出せない人だからです。
死亡しているからじゃないんです。
金正日の責任につながってしまう人だったから、と言うことに尽きると思っています。
最近の情勢について若干お話をして。
そして実は今日参議院の内閣委員会で、拉致問題について審議が行われましたので、それは傍聴されていた飯塚さんと増元さんが来てますので、あとで報告していただきたいと思いますけども。
毎月の集まりで何回も申し上げてるわけですけども、去年の12月がひとつの転機だったわけです。
日本政府は「北朝鮮の主張を裏付ける物証・情報は皆無である」と言ったわけですね。
そこで北朝鮮の「8人死亡2人未入境」という主張は論破できたんです。
彼らは市川さんの死亡を証明できなかった。
その方が結婚の日付とか矛盾しているわけですね。
誰が見ても笑っちゃうようなことしか言えてないんですね。
これで死んだなんて信じるか?って言ったら誰も信じることは出来ないんですね。
で問題はですねその時に細田官房長官が記者会見をしまして、北朝鮮に対して、「迅速かつ誠意ある対応を求める」と。
「迅速かつ誠意ある対応」
そして「それが無い場合には厳しい対応を取らざるを得ない」と。
「厳しい対応を取らざるを得ない」
これも政府の担当者としては初めて「厳しい対応」と言う言葉を使ったんです。
制裁をするという意味だと。
制裁もその中に入っていると、後で細田さんも認めてますけども。
言葉遣いは若干オブラートに包んでますけども、このままで行くと制裁をしますと、我々はもうずっ〜と言ってたんですけども、日本政府が初めて言ったのは12月の24日なんです。
ただ、一点だけ、不安だったのはその発言を聞いてですね。
大変良かったと思ったんですが、一点不安だったのは迅速にと言っていて期限が付いてない。
そこで、薮中、当時のアジア大洋州局長に私が質問して、「迅速というのはいつまでなんですか?」と。
「1年や2年このまま過ぎて迅速ということはないでしょうね?」と言ったら。
「常識の範囲と言うのがあります」って言ってました。
しかし迅速で誠実な対応を求めるって、誰が見ても今北朝鮮は誠実な対応をしてませんよね?
これは小泉総理に聞いても、そこで逃げることは出来ないと思うんですね。
日本政府の鑑定が捏造だと言ってる、もう日本とは話し合わないと言ってるわけですから。
これを誠実な対応とはいくらうまい官僚が答弁を作ることは出来ないと思うんですね。
問題は迅速なんです。
まだ迅速っていうのが終わってないから待ってると言うことなのか?
迅速な対応を待ち続けているのか?
迅速な対応が無ければ厳しい対応をすると言ったんですからね。
言ったのにやらなければ、これは逆に大変まずいマイナス効果が生まれちゃう。
金正日からすれば日本は口だけだと。
制裁法案を作ったけれども、やっぱりわが国が怖いから制裁できないんだと。
偽の遺骨を送るって事をやってそれがバレちゃったのにも関わらず、制裁をしてこないと。
ここで制裁できないんなら、日本は拉致で制裁できないな、と思われちゃう。
担当者は必死にですね、「実は帝京大学の鑑定が捏造なんです」って言ってます。
金正日の決済を貰って遺骨を出したわけですから。
ここで何回も言いましたけど、松木さんの遺骨を最初出してね、遺骨と言われるものをね、日本の鑑定能力を確かめたわけです。
高温で焼いたらDNAは出来ないと思った。
出てきちゃった。
「お前何やってるだ!」ということになりますよね?
「こちらは大恥かいたじゃないか!」と言うことになりますから。
「いや、これは安倍晋三とか反動派の謀略で帝京大学が嘘ついてるんです」って事を言ってるわけです。
「その一番の根拠は日本が制裁かけないでしょ?」と。
「小泉総理が怒らないでしょ?」と。
「あれは何か後ろめたいんです」と。
そう言ってるのは間違いないし、世界から見ればそう見えますよ。
13歳の少女や20代の若者がどんどんさらわれて。
さらったと言うことを認めた後出したのが偽の遺骨だったり、偽の死亡診断書だったりしてるのに、迅速にと言ってて2ヶ月も3ヶ月も何もしないと。
北朝鮮の方から非難されていると。
なんか日本は鑑定に自信が無いのかな?思われますよね?
ネイチャーと言う自然科学の専門のイギリスの雑誌があって、(鑑定に)疑問ありと言う記事を載せたりしてるんですよね?
そういうものを当然北朝鮮は国際社会の宣伝に使いますよね?
今かけないと金正日にもあるいは国際社会にも誤解されちゃうんですよね?
日本は拉致問題重視してない。
それで家族会・救う会の合同会議で4月24日に国民大集会をすることを設定しました。
そのちらしがここに、これは今コピー版で作ったやつですけど。
綺麗に印刷して作ろうと思ってるんですけど。(会場内、事前に配られた集会案内の資料を広げる音)
4月24日の日曜日の午後2時から5時まで。
「小泉総理の決断を求める国民大集会」(拍手)
いままでは「めぐみさんたちは生きている!」とか、「拉致はテロだ!」とか言ってたんですけど、固有名詞を出してですね。
「小泉総理の決断を求める国民大集会」としました。
そして4月24日まで全国の救う会は各地で街頭行動や集会をする。
で、迅速ってのはいつまでなんだ?というその一点に絞ってですね、集会をやると。
4月24日になったら4ヶ月になるわけです。
迅速な回答を求めて4ヶ月経っても回答が来ないのに、厳しい対応をすると予告しながらしないのか?と。
いうことをやろうと思ってます。
そして家族の方たちはその議論をしたときに、小泉さんを批判しなくちゃいけないと言ったら、その前に小泉さんとぜひ一度会いたいと。
会って家族の立場からすると制裁を求めるっていうのも胸が裂かれる思いなんだと、まだ向こうに肉親がいるんだから。
その立場で北朝鮮に一番厳しいことを言ってるのはどういう気持ちで言ってるのか?と。
そのことをぜひ直接訴えたいと、言うお話がありましたので。
4月24日の国民大集会とそれから全国の救う会での集会と街頭行動、そして3つ目政府に求めていくのは家族と会ってください。
実はそのことについて今日、迅速と言うのはいつまでなのか?
もう今2ヶ月以上経ってるんだから、制裁発動する時期じゃありませんか?制裁して欲しいってことと、家族と会って欲しいと言うことと。
まだ認定されていない寺越さんたちとか、加藤さん、古川さん、福留さん、田中さん、小住さんたちについてですね。
特定失踪者問題調査会が出来る前から、救う会が拉致と認定している部分について認定を求める。
それから朝鮮総連の最高幹部6人が北の国会議員を兼ねてるわけですね。
許宗万(キョ・ソンマン)総連副議長をはじめとしてですね。
その人たちに対する再入国許可の取り消してください、と言う申し入れをします。
そのことについて若干申し上げたいんですが。
人権問題だと考える方もいるかもしれませんが、実は日本政府は日本国民の旅券を失効させている。
よど号の妻たちですね。
金子(恵美子=よど号犯・赤木志郎の妻)が最初帰ってきまして捕まりましたよね?
彼女の罪は何か?と言ったら、彼女は海外旅行中に、日本政府が「あなたの旅券は失効だから返還しなさい」と旅券返還命令を出してるんです。
それに従わなかったと。
旅券返還命令に従わなかったから捕まるんです。
じゃあなぜ旅券返還命令を出したか?というと、彼女が何かテロをやったか?違法行為をしたか?というとしてないんですね?
北の工作員と一緒に行動している。
それは日本の国益・安全にとって大変有害である。
だから旅券返還命令を出す。
1988年の5月にやったわけです。
日本国民でそれも海外旅行の人の旅券を、工作員と一緒にいるというだけで、返還させちゃったんです。
国家と言うのは安全のためにはそういうことをするんですよ?
日本で永住許可を貰ってる人が自由に北朝鮮と行き来できる。
今4年間自由に行き来できる再入国許可を出してるんです。
1回ごとに許可しなくて、4年間だったら何回でも行ったり来たり出来るっていうのを、出しちゃってるんです。
朝鮮総連の幹部、北の国会議員に。
日本の国民にも旅券失効命令出したんです、実際。
北の国会議員が北の政策に責任ないなんて言えないですよね?
許宗万氏は学習組という公安調査庁も認めている、日本の中の非工作組織のリーダーなんです。
北の工作員と一緒に行動してるどころか、北の工作員そのものなんです。
その人になんで?日本人の旅券を失効させといて、彼らを自由に行き来させてるのか?
少なくとも、拉致問題について、北朝鮮が迅速で誠意ば回答をしない限り、再入国許可を停止すべきだと。
現行法規で出来るんです。
日本人に対して出来てるんですからね。
この件についてはよど号の妻たちは最高裁まで争ったんですね。
負けたんです裁判、彼女たちは。
と言うような要請をしております。
後は家族会の横田さんたちも来てくださってますので一言ずつ。
【横田滋さん】
こんばんは。
横田でございます。(「こんばんは」の声 拍手)
今日は皆さんのところに資料としてふたつ。
総理大臣のところに申し入れをしました。
全会の運動方針に基づく要請と、「人権教育・啓発における日本人拉致問題への積極的関与について」これを今日は救う会の平田さん西岡さん、それと家族会の代表4人が行ってまいりました。
これは小泉総理大臣に対する要請を内閣府の家族支援室の大熊室長に提出して。
それを総理大臣の方に提出していただくことになったわけで。
特にそこで大熊室長に「ハイ分かりました、こうやります」と回答が出るような問題ではありませんが、「皆さんの気持ちはきちんと伝えます」とおっしゃってくださいました。
先般、家族会・救う会それから拉致議連の合同の協議会を開きまして、当面の運動方針を決めたわけです。
例えば4月24日に国民大集会を開くって事は、小泉総理を申し入れることではありませんので、その他の事について申し入れを行いました。
もうひとつが人権問題というのは政府が平成14年に「人権教育啓発に関する基本計画」っていうんで閣議了承したのがありますが。
外国人に対するいろんな差別をしてはいけない、同和教育であるとかいろんな問題が出ておりますが、拉致問題についてはそれが出てません。
14年の段階では当然国会で取り上げられた後ですので、まだ金正日が拉致を認めた段階ではありませんけども。
それこそどんな国内にあります人権侵害といったようなことが並べられてるわけですが。
拉致の問題については何も述べられてませんので、それを入れて欲しいと言うことをお願いしました。
そうしますと学校教育とか、各地の教育委員会が講演会を開く時でも拉致についても加えて欲しいって事を申し入れることが出来ますので。
これが入りますと、学校教育なんかでも拉致問題が広く取り入れられることになると思います。
そしてこの後、増元さんからお話があると思いますが。
今日の参議院の内閣の委員会でこのことについて質問があったときに、官房長官が一般的には曖昧な答えが多かったらしいんですけど、このことについては前向きな答弁をなさったようです。
また最近では家族会・救う会で鳥取県の境港で集会を開きました。
保険をかけてない100トン以上の船は入港できなくなるのが3月1日からでしたが、その直前の27日に境港に行きました。
こちらは人口が2万5千くらいの小さな町で、その中で水産加工業なんかに携わっている方が1100人くらいですから相当影響が大きいわけです。
これはあくまでも経済制裁ではなくて、そうした船が日立でチルソン号が座礁したようなかたちで事故を起こした場合の保障を求めると言うことが、本当に誰でも保険をかけてない船を入れないということで。
経済制裁ではありませんけども。
実際には北朝鮮が2・5%くらいしか加入してませんで、実質的には経済制裁に近い形になりますが。
地元の方にはやはり迷惑な話って言いますか、生活に関わってくるわけです。
しかしそういうところであるにも関わらず市長をはじめたくさんの方が拉致を解決するためには我慢をしなければならないと言う形で支持をしてくださって、我々としましても非常にありがたいことだと思いますし。
直接関係ないところではなおさら強く支持していただけるのではないか?と心強く感じております。
最近の動きをご報告申し上げました。(拍手)
【横田早紀江さんのお話】
こんばんは。(拍手)
いつもご支援ありがとうございます
特になにかお話と言われてもあれなんですが、今日は市川さんのお話をお聞きしまして。
特にお母様の着物の話を聞きまして。
本当にもうどんな思いでその着物を抱きしめていらしただろうなぁと、涙があふれてなりませんでした。
私もやはりそのような時代の者ですから、もう母はおりませんけれども。
今日見せてくださいましたような着物を、就職しました時とか、そのつどやはり母に反物を買ってプレゼントしたことを思い出しながら。
本当に親子の思いというのは、どこでも同じなんだなぁという思いで聞かせていただきました。
本当に早くお母様が元気な間にその思い出の着物をね、着て。
そして修一さんが「あぁ僕の贈った着物を、お母さん忘れないで着てくれたんだ」と思って。
タラップの上から降りてきてお母さんと抱き合われる日が本当に早く。
こんなに長いこと待たされることは許せないことなんです。
考えてみてもね。
いつまでも、いつまでも、いつまでも家族がね。
こんな風に全国駆け巡って皆さんにお話しすることも大事なんですけど。
「もういいですよ」と。
「私たちが責任ですから」
「国を負う者がやるんですから」って、本当に言っていただきたいと思うんです。
政府の方には率先して、何も言わなくても一生懸命に本気で取り返す算段をやっていただきたいと思っています。
私たちはまだまだ元気でがんばれますので一生懸命にまたお話させていただきますけども。
本当にどうか皆様方の目を政府に向けて。
間違った外交をしていないか、どんな思いをしてやっているのかと言うことをしっかりと見ていただいて。
また誉めていただいて、見守っていただきたいと思っております。
どうぞよろしくお願いします。(拍手)
【飯塚繁雄さんのお話】
皆様こんばんは。(「こんばんは」の声)
いつもながら大変ご熱心な、集会に来ていただきましてありがとうございます。
今日たまたまですけども、参議院の内閣委員会が開かれまして、私と増元さんで傍聴に行きました。
質問はですね、民主党の森ゆうこさんですね。
この方がハッキリと質問しておりました。
本当に偶然と言うか、もちろん察しておるんですけども、今日たまたま私たちが申し入れた内容、全くそのとおり質問を強く行ってました。
ひとつは人権教育問題。
これをきちっと基本計画に入れなさいという話。
これについては官房長官がですね。
官僚的な回答で「盛り込むように検討します」と、言うことしか言っておりません。
これは今かなり論議が高まってますので、かなり突っ込んだ論議がされると思います。
我々がいつも発信してる「拉致問題解決のためには経済制裁しかない」と。
こういう意見をですね、ハッキリといいまして。
「いわゆるこの問題の一番大きな有効なカードとして今持ってるわけですけども、このカードを無効にするんですか?」と、言うような強い話し方で話しておりました。
「経済制裁ということは世論も支持しているし、いろんな国会議員・その他も支持してる。こういう中で官邸としてはどうするんですか?」と。
「やるんですか?やらないんですか?」と言うような強い質問を行ったわけですけども。
これについても官房長官はハッキリと明言はしておりません。
結論から言いますと、「北の対応は確かに不誠実なものだ、それは我々も感じている」と。
「しかしながらやっぱり対話が出来る状態にしておかなければならない」(薄笑いの声)
「そのようにこれからも努力する」
「多少の忍耐は必要である」(会場内、あきれたようなどよめき)
そんな言葉ばかり出るのかと思うと我々もがっかりするんですけども。
当の質問した森ゆうこさんも私たちに謝ってました。
「こんな回答しか出せなかった、今日は。申し訳ない」と言ってましたけど。
結局いろんな状況を判断して、例えばアメリカのパウエルさんベーカーさん、この辺の話がですね、ありましたけれども。
「必ずしも一国だけで制裁しても効果はないだろう」と言うような話をしてましてね。
で、我々としてはそうではないんですね。
もちろんも森さんも言ってましたけども。
日本が率先して怒ってる、経済制裁という有効なカードを切って、ハッキリとした強いメッセージを送らなければいけないと。
そうしなければ外国諸国もついてこないと、こういう考え方からハッキリ追求しておりました。
日本も今まで3回くらい制裁をしたという話も聞きましたけども。
ラングーンの事件、大韓航空機、それからテポドンが太平洋に落っこった。
このときにしたようなんですけども
その結果は私たちはっきり聞いてませんが、そういった経験はあるわけです
従って「この経済制裁を何とでもすべきだ」と、あくまでも強い態度で迫っておりましたし。
「拉致被害者の家族の人たちに座り込みまでさせるんですか?」と言うようなことも言っておりましたね。
ですから例えば24日に集会をやりますけども、その前にきちっとした態度を出しなさい、と言うことだったと思います。
それからですね、特定失踪者の問題につきましても。
何人かがすでに認定されてもいいと、いうような状況の人がおります。
これについては即認定せよという話もしたんですけども。
やっぱりここはですね、逃げました。
官房長官曰く、「証拠がない」(あきれたどよめきの声)
「証拠がない以上認定できない」と。
まあ「だけれども、これから鋭意一件一件調査します」(あきれたどよめき、野次の声)
同じ議員の中でそういう野次も出ましたけども、「もっと突っ込め〜!」とかね
非常にそういう意味ではこの委員会この拉致については盛り上がっていましたし。
たまたま私と増元さんが入って来た時にすぐ察知して、「今日は家族会の飯塚さんと増元さんも来ております」と。
言うようなハッキリといいまして、その場の雰囲気も高めておりましたけども。
大体そういう内容なんですが。
いずれにしてもいろんな方面から経済制裁につきましては実行可能な場面になってきてるわけです。
ただ一人我が総理がですね、なかなか首を縦に振らないのが非常に残念ですけども。
これからは集会のテーマにあるように小泉さん自身に迫って行くと。
言うような形をとらざるを得ないと思っております。
補足については増元さんの方からお話があると思いますが、以上です。
どうもありがとうございました。(拍手)
【増元照明さんのお話】
今詳しく話されたのでほとんど補足することはないんですけれども。
「人権教育啓発に関する基本計画」
これに対して最初(福田官房長官が)官僚的な答弁をされたので森さんが
「官僚的な答弁は聞きたくないんです。長官自らの意思で自らの言葉で言って欲しい」
と言ったら、最後には踏み込んだ表現をされて「入れるべきだと思う」と。
「個人としては思う」とその程度のことはおっしゃってました。
あとはだいたい飯塚さんがおっしゃった通りなんですけども、とにかく傍聴席って言うのは絶対に声を上げちゃいけない、手を叩いちゃいけない。
皆さんの思うように私も野次を入れたかったんですが、それをやると2度とは入れないので。
何回もそういうところへ行って圧力をかけなきゃいけないと思ってますので、ルールは守ってきました。
また機会があれば、そういう情報があれば、時間があれば行きたいと私は思っています。
今日の申し入れなんですけども、最初「内閣総理大臣」って言ってる。
最初の救う会の全国協議会の幹事会の中では「小泉内閣に対する、小泉内閣に決断を求める」そういう内容だったんですけども。
今小泉内閣ではないだろうと。
小泉総理だろうと、言う幹事会の中でも皆さんの強い意見がありまして。
最初の「小泉内閣」と言うところを「小泉総理」と変えました。
それほど皆さんが今の小泉総理の決断を促す方向でないと、この拉致問題の経済制裁の発動もそうですけども、全て動く方向に行かないだろうと。
今閉塞感を持っておりますので。
小泉総理一点で絞ろうと言うことで、やりたいと思っております。
ぜひメールでもそしてはがきでも、皆さん小泉総理に送ってください。
国民の怒りを“小泉総理に分かるように”これから発揮していきたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。
【平田隆太郎事務局長のお話】
え〜っとちょっと付け加えますと、人権教育の基本計画についてですね。
今日は少し前向きな発言があったということですが。
他方で今日は「人権法」と言う法律の方ですね。
これを法務省が今用意しておりまして。
自民党の法務関係の合同部会で議論されております
この中では全く逆の動きが今進んでおります。
あえて例えて言えばですけども。
今日、西岡さんが「総連の6人について再入国許可を出さないように」と言うような発言をしました。
今後この法律が通過をしてですね。
この港区の人権委員がですね「これは差別である」という、決定をしますと西岡さんは逮捕されます。(えっ?と言う声)
逮捕されたらどうするのか?いうような議論が自民党の中で今日行われている。
つまり基準がきわめて曖昧で人権の委員と言うのもどういう人が選ばれるか分からない。
この曖昧さの中で一定の権力を与えていいのだろうか?と言う議論で。
この法律が通ると逆に救う会も総連の問題に対して言及できないこともあると言うことで、ぜひ皆さんもご注目いただきたいと思います。
後もう一点、先ほど油濁法のことがありましたよね?
外国の船が入って来れなくなると言う、境港の話が出ましたけども。
境港の漁業の関係者の中のところに、地元の人と西岡副会長が行きましてですね
油濁法と言うのはふるさとの海を守るための法律ですね。
制裁でも何でもないんですね。
これをいくらやっても業者は国家から保障が出ない。
だけども制裁をかければ、これは国が業者に迷惑をかけてる部分もあるので保障が出るんですね。
だから皆さん経済制裁支持してくださいよと。
「あ、そうだな?」っていうかたちでですね。
地元の業者の方も制裁かけなきゃだめなんだな?という話し合いがあったというふうに聞いておりまして。
地元の業者を守るためにも経済制裁でなかれば守れないんですよ。
ぜひそういうこともご理解いただきたいと思います。
ちょっとまだ(時間が)ありますのでご質問を受けます。
ちょっとその前にお一人ご紹介させていただきます。
市川さんのお嬢さんがいらしてます。
福岡から駆けつけて来てますのでご挨拶を・・・
『市川ご夫妻のお嬢さんの挨拶』
(司会者に促され、会場席より立ち上がる)
(平田氏の声)こんばんはからちょっと(会場笑い声)
こんばんは(拍手)
今日は私の家族のためにお集まりいただき、ありがとうございました。
私は何も出来ないんですけれど、両親をちゃんと見守っていきたいと思っています。
皆様よろしくお願いします。(拍手)
【質疑応答】
質問者1
先ほど北朝鮮の工作員が「拉致をしたのは俺だ」とかそういう話でございましたけど。
彼らは朝鮮語でなんと言うふうに拉致を読んでるんですか?
それとも誘拐というふうなニュアンスなんでしょうか?
言葉はどんな言葉でしょうか?
回答 西岡氏
ラチ、拉致と言う言葉は使ってますね?
ラチ、ラチ・・・拉致ですね。
質問者1
同じですか?多少は悪いことだという意識はあるわけですね?
回答 西岡氏
と言うより、拉致というのは科目があるんです。(会場内 どよめき)
政治軍事大学に。
拉致がテロかどうかと言うことを日本で議論してるときに、「馬鹿なことを言うんじゃない」と安明進に怒られたんですけど。
テロリスト養成学校の必修科目にあるのに何で拉致がテロじゃないんだと。(笑い声)
それで安さんも拉致をされたこともあるし、したこともあると。
拉致演習です、実技、政治軍事大学の教官を誰か一人拉致して来い!とか、学生を拉致して来いとか。
安さんも拉致されたこともある。
それから社会に出て行ってですね、地方の党の幹部を拉致して来いという実習もあるんだそうです。
それはやってみたことがある、と言うことですね。
拉致という言葉はかなり沢山よく使われています。
回答 平田氏
日本人が想像も出来ないような異常な状態なんですね。
先ほどの大学の船も卒業旅行で勝手に日本に来るんですから。
質問者2
私せいぜい今日が3回目ですので偉いことは言えませんけども。
救う会の企画でこのように家族とか直にお話を聞く機会を与えてもらったこと、大変有意義だったと思います。
まずはそれを感謝します。
質問を受け付けられましたので 私の言い分はもう達せられたんですが。
過去2回の時にはこういった質問時間が、何か言ってもいい時間が設けられていませんでしたので、せっかく家族も目の前にしてるんですから、励ましの言葉ですとか。
あるいはまた西岡さんもいらっしゃる、平田さんもいらっしゃる。
それじゃあ教えて欲しいこと、疑問に思うことをこの際聞きたいという方もいらっしゃる。
そういった時間を設けて欲しかったなぁ、ということです。(笑いと拍手)
(平田氏 「ありがとうございました」)
質問者3
経済制裁のことでいろいろ出てますけども、私昨日インターネットでちょっと見たんですが。
北朝鮮は今度薬品で外貨稼ぎをやってると言うのをちょっと実は聞いたんですよ。
(西岡氏 「薬品?」)
薬品、薬品。
結局バイアグラとかあれなんだけど、これ見た時非常にこれびっくりしちゃったんですよね?
(平田氏 「覚せい剤とかじゃない薬品ですね?麻薬とか?」)
バイアグラとか、インフルエンザの万能薬とかなんですよ。
余計なこと言っちゃって申し訳ないんですけども、これ見てやつらも考えてるなという、関心はしてられないけれどね。
ちょっとこれ言いたくてお話したんですが。
司会者 平田氏
ありがとうございました、後で出所をぜひ教えてください。
質問者4
西岡さんにちょっとお聞きしたいんですが、金国石という工作員がいますよね?
あの・・・の中で市川さんについての話が出てきますが。
金国石に対してはどういうふうな評価なんでしょうか?
ちょっとここの中では出なかったんですが、彼自身は市川さんと増元さん斉藤さんを見たと本に書いてますが、信憑性というのはどうなんでしょうか?(一部聞き取れず)
回答 西岡氏
彼は馬東煕(マドンヒ)大学に通っていたことがあるとか言ってるんですけれども。
彼が馬東煕大学に通っていたと言う事実が確認できないんですね。
で、あの、ちょっと、なかなか難しいなぁと。
言ってることの矛盾もかなりありまして、こういうところで取り上げる段階の情報じゃない。
質問者5
今日の申し入れの中の人権教育の関係ですが。
諸刃の剣にならないかな?という心配があるものですから、その点だけひとつ十分ご留意いただいてやっていただきたいというふうに思うんです。
(西岡氏 「どういう意味ですか?具体的に?」)
外国人の人権を守るとかというようなことが、例えば北朝鮮とか中国の人たちの人権を守ることにつながるようなところに悪用される危険性があるんじゃないのか?と。
(西岡氏 「いや、もうすでに基本計画の中に外国人という項目はあるんですけども」)
ありますからこの項目を使うのは怖いんです。
回答 西岡氏
というより、拉致という項目は無いんです。
それはちょっと余りにもおかしいんじゃないか?と言うことなんです。
外国人と言う項目はあるのに日本の中にいる外国人の人権も守られるべきものと思いますけど。
外国人によって日本人の人権が犯されていることについてはやらないで。
日本人が犯したことだけをやるのは日本の教育としてはおかしいことだと思いますので。
その他と言うところに若干入れられるとか、いまでも白書なんかではその他に入れているですけど、なぜその他なのか?
一項目きちんと、日本人が犯されていることについても、日本人が犯していることだけを取り上げるというのは、一方的過ぎると思いますので趣旨は良く分かりますけども。
今の計画の物は、多数派の日本人はいつも人権侵害を犯すと言うのが前提であるような格好になっちゃってますので。
しかし、市川さんにしても増元さんにしても普通の日本人だったわけですよね?
普通の日本人が普通にデートをしてたり通学路歩いてたら、ひどい人権侵害にあって今もそれが終わってないと。
そのことについて重大な人権侵害として、学校教育でもっとちゃんと教えてもらわなくちゃいけませんし。
じゃあなんでこんなことが行われているのかと・・・
質問者5
趣旨は良く分かってるのです。
趣旨はよく分かってるんですが、実行する人たち、その教育をする人たちが怖いもんですから。
それでその点は十分気をつけていただきたいと。
回答 平田氏
逆にいままで20年30年人権と言う概念は、同じようなイデオロギーの人たちが関わってこられている中で。
実はそうではない人たちも人権委員会の中におられて、拉致問題と言う項目が入れば全く違う切り口で人権という問題を取り扱えると。
しかしその文字が無いので、なかなか積極的に拉致問題を取り扱うことが出来ないし、予算も付かない。
その意味でぜひ文字として基本計画の入ってくれば自治体もやりやすいと言うようなニーズを受けての反応でございます。
質問者6
西岡さんに質問です。
北朝鮮の・・・・・・国会が延期されてますけど。
北朝鮮も潰れる潰れると言いながらなかなか潰れないんですけど、残念なことに。
現段階でかなり動揺が来てると思うんですが、でも誰も見たわけじゃないから正確なことも分からないんですけど。
現段階で北朝鮮の国内体制ははどれくらいいけるか、どうなってるんでしょうか?(一部聞き取れず)
回答 西岡氏
見ても分からないんですね?(笑い声)
金正日の心臓が動いてるかどうかということにつながるわけですけども。
私は北朝鮮の体制と言うのは1995年以降大きく変わってですね。
一言で言えばアウシュビッツの収容所になってしまったと。
国全体がですね。
配給止めちゃったわけですね。
社会主義っていうのは主食は国家が補償するわけですね。
しかしその国家の補償を戦争が始まってもいないうちに止めちゃったんですね。
だけどもそれで結果として300万人以上の人が死んだんですけど、真面目な人が死んだんですね。
党や金正日のことを信用している人たちが死んでいったんですね。
闇を出来る人たちが生き残ったと。
不正をする人だけが生き残ったという、そういうことですけども。
しかし収容所の中でアウシュビッツの収容所の中では、収容所に入れられたユダヤ人が死んでも誰も責任は取らなくていいんですね。
ただ問題は反乱が起きた時。
反乱が起きないためには、厳しい監視をしているわけですね。
ですから外部から援助がくればですね、逃げられないための高圧電線の電気になるとか。
反乱起こしたときにその人間を殺す銃を買うとか。
管理兵がお腹一杯食べて元気になって、見張れるようになると。
外部からの95年以降の援助と言うのはそういう風に使われているわけです。
行って見れば軍と政治警察が横取りしてるわけです。
その一部が闇市に流れてます。
高値でお金持ってる人だけが買えるという、構造になってるんですけども。
大きな変化としては洗脳は解けてます。
金正日が神様だとかそういうふうに思ってる人は、どんどんどんどん少なくなってます。
目の前でばたばた家族が死んでるんですから、金正日の時代になったら家族が死んだと。
分かりやすいんですね。
金日成の時代は配給は来てたんですね。
金正日になったら止まったんですね。
そしたら家族が死んだんですね。
これはアメリカのせいだってなかなか言えないんですね。
アメリカのせいだって言ってますけどね。
そしてもうひとつ韓国が豊かだということをほとんどの人が分かり始めてる。
機会があれば韓国に逃げられればいいなと思ってる。
もっとインテリの人は韓国はしかし左傾してると分かってきて、逃げるならアメリカへ逃げたいと思ってるんですが。
しかし洗脳は解けてきて情報は入ってきてる。
しかしむき出しの暴力はまだ機能していて、逆らったらば家族連座制で殺されるという部分はまだ壊れていない。
国家なのに配給は止めておいて、しかし逆らったら殺すと。
そういう状態になって10年経ったんですね。
ただしこういうことをやってるとですね、恨みを買うんですね。
家族連座制で殺された人たちや収容所に入れられた人たち、高官でもどんどん粛清されてますよね?
粛清は多いです。
軍の幹部とか政治警察の幹部で、かなりの人間が金正日時代になってから飛ばされたり公開処刑されたりしています。
ごく最近入って来たニュースでも、3月1日に国境地域で公開処刑が行われてます。
もう銃声を見せるしか人民を統制する方法は無いというふうになってます。
しかし殺された人たちは隙があったら何とか反乱を起こしてやろうと、金正日を倒してやろうと思うわけです。
そういう人たちがどんどん増えて来ていることも確かです。
最近韓国へ亡命してきた人たちに話を聞いたんですけど、北朝鮮問題を理解するんだったらば、第一の事がある。
それは金正日が逃げ隠れしていることだと。
自分がどこにいるか誰にも絶対教えない。
いつも隠れながら軍隊などを訪問してると。
誰にも教えてないんですよ?と、国内でも。
誰も信用できないんですよと、彼は。
しかし周りの人間が誰か逆らったら殺すシステムだけが維持されているので、あの国家は維持されている。
周りの人間が誰か逆らったら殺すシステムを支えているのは、外国からの援助なんだと。
日本と韓国と中国から行ってるわけです。
日本は最近止めてますけどね。
しかし韓国や中国がまだ出してる。
だから政治警察が機能してるわけです。
そこがどうなのか?と言うこと一点にかかってるわけですけども。
最高首脳部の動揺が来てるのは事実ですね。
ということと、金正日がいつ暗殺されるか?
動揺が来てると言う事と金正日が暗殺されるということは、必要条件ではありますけども十分条件ではないですから。
暗殺未遂事件は沢山起きてます。
それは事実です。
しかし皆失敗してます、今のところ。
というのが現状であって。
もうひとつ大きな変数は、韓国ですね。
韓国が今思想的に内戦状態で真っ二つに割れてるわけですね。
親米そして日本との友好関係を重視して、自由民主主義で金正日と戦おうという勢力が国の半分くらい。
半分くらいが反米・親金正日・反日ですね。
そして親中ですね。
真っ二つに割れて、今思想的には内戦状態で、いつそれが暴力騒ぎになるかどうか?という状況になっていまして。
実はさっきもちょっと電話がかかって来たのは。
櫻井よしこさんが先月号の文芸春秋で韓国の状況についてレポートを書いたんですが。
そこにこの間国際集会にも来てくれた金文洙君と、それからニューライトーントって言って、韓国で過激な左派運動やってる人でその後転向して北朝鮮民主化運動やってる人たちがいるんですけど。
その代表にインタビューをして日本の靖国問題についてですね。
若干理解があるような発言をしたと言うトーンで、櫻井さんが書いんですが。
それが韓国のハンギョレ新聞っていう新聞が大問題だって書いて、櫻井さんに書かれた人たちを糾弾する記事を書いて、その人たちが今釈明をしてるという状況が起きていまして。
つまり北朝鮮の側は日韓が連帯してもらっちゃ困る。
収容所にいる人たちを助けようと思う日本人も韓国人もいるわけです。
アメリカ人もいるわけです。
でも、50年前何が起きたのかとか、60年前に何が起きたのかということで意見の対立をさせて。
今苦しんでる人を助けるという事の仲間割れを起こさせようとしている。
私は人権派に強く言いたいのは、人権が大切だと言うならば今苦しんでる人を助けるのが先決じゃないのか? (拍手)
50年前60年前に人権侵害されたから、そのことについて謝罪しろ保障しろと言う議論をしてもいいと思いますけど、その人たちを助けに行けないんですよ、タイムマシーンが無いんだから。
今苦しんでる北朝鮮の人たちや韓国人の拉致被害者・日本の拉致被害者は、今我々が頑張れば助けられるんですよね?(拍手)
人権侵害の後を止めてから後、歴史評価をすればいいんであって。
人権を本当に大切にしてるのなら、今目の前でアウシュビッツより酷いことがこの10年間行われているわけですよ。
配給が止められてしまって、人々を、逆らう人間を殺すということをやってるんですから。
そういうところに拉致被害者もいて、自国民を大切にしない国家ってのは他国民に対してもテロをするんですよ。
金正日の人権侵害は北の人間にとっても韓国の人間にとっても日本人にとっても敵なんですよ。
というふうに考えて。
日韓のナショナリズムの対立と言うことを煽って、自分たちに対する批判を弱めようとしている金正日の策動に乗ってはいけないと、思ってるんですよね。
そのためにはですね。
韓国人にいつもずっと言ってることなんですが「歴史認識は一致しない!」と言うことで一致しよう。(笑い声)
お互いの歴史認識について自分と違ってるからけしからんと言うから駄目なんだ。
保守派は自分の国に誇りを持ってますから、お互い会うと喧嘩になる、どうしても。
竹島問題なんかなるんです。
でもそれは民族が違えば歴史認識も違ってるんだ、違っていいんだ。
相手の教科書を自分の同じ教科書にしようとか、お互いに言うのを止めようと。
それだけ一致すれば、目の前の金正日という人権侵害者と戦えるじゃないかと。
まぁ、そんなことを言ってるんですけど。
何の話をしてるんでしたっけ?(笑い声 拍手)
北の今の状況でしたね?
司会者より
ありがとうございました。
(集会終了)
このレポートはすべて「ぴろんさん」のテープ起こしによります。
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