
| 増元照明氏講演会 日時:平成14年12月5日 会場:九州大学 |
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ご紹介いただきました増元照明です。家族会の事務局をやっております。九州大学に呼んでいただいて本当に感謝しております。私も九州鹿児島生まれで鹿児島みふね高等学校という一応進学校ではあったんですが、九州大学受けようかなとは思ったんですが、ちょっと学力が足りずに他の大学に行ってしまいました。で、こういう九州大学で皆さんの前でお話するというのは信じられませんが、1時間程度ですが、話を聞いていただきたいと思います。 今、日本は20年以上この問題に関して解決に関して何も出来ていません。何故か。それは恐らく皆さん、感じていらっしゃると思うんですけど、私も感じておりました。戦後教育というものの中、それからその映画、本、色々な本の中で日本がその戦時中に北朝鮮、朝鮮半島で行った支配、植民地支配に対する非常な贖罪という重いものを教育の中で持たされた、持たされすぎたんではないか、そういうような私は気がしています。実際、私の中にも未だにまだ朝鮮に対する植民地支配に対する贖罪のような重いものをまだ抱えております。これはやはり小さい時からそういう教育を受けた、そういうものなんだと思います。実際でも今、我々、救う会からレクチャーされてる段階によりますと日本がそれほど、あの、これはまあ暴言かもしれませんが、そこまで朝鮮半島に対して悪いことばっかりはしていない、いいこともやってきたんだという、だんだんそう思うようになってきています。ただ、やはり我々国民の中にそういう贖罪の重い物を持ってる限り、北朝鮮に対して強く出ていけない、そういうものがあったんではないでしょうか。 この二十数年間やはり日本社会党全盛の50年体制からすぎて社会党がまだ野党第一党として幅をきかせておりました。我々も学生時代、やはり反体制な部分がありますので、どうしても学生というのは、ですから自民党のその汚さ、それを見るにつけやっぱり社会党でなければいけないのかなという、そういう思いで社会党に私も一票を投じてきた身です。 しかし、この5年前に拉致の問題、我々の会、家族会を作って以来我々が政府に働きかけそして外務省、大臣、皆さんにお話しているのに全然この問題が解決していかない、何故なんだろう、どうしてなんだろう、そういう思いで4年間を過ごしてきました。2000年ほどから、社民党、土井たか子さんの拉致問題に対する認識の甘さというか、否定的な姿勢が見えてまいりました。これからたどっていくとやはり日本社会党というのは朝鮮労働党との友好関係があり日本の国の警察が6件9人という風な発表、これは1987年にこれはしてるんですけども、1988年の時の梶山静六自治大臣が国会の場で北朝鮮による拉致の疑いが非常に濃厚であると、1988年に答えたにもかかわらずそれを報道したマスコミもそんなに多くなかった。どうしてなのかな、なぜなんだろう。我々家族会が結成されたのは1997年なんですけど、その時ご尽力頂いたのが兵本達吉さん、共産党議員の秘書さんでした、それから朝日放送の石高健二さん、このお二人の肝いりで全国に散らばっている拉致被害者家族を東京に一同に集め、当時、非常に表面化していた横田めぐみちゃんの、もう二十年、拉致されて我々の家族が拉致されて二十年、そういう時にもう、皆さん集まってこれから一緒に運動しなければこの問題解決出来ないと思いませんか、とそう言われました。やはり我々も自分の家族、実名を出してこういう運動をすると北朝鮮で異常な目に遭うのではないかという恐れがありました。それでお尋ねしました。大丈夫でしょうか。実名を出しても。兵本さんがおっしゃいました。もう二十年足ってるんですよ、このまま黙っていたら、この問題はもうほとんど解決しませんよ、却って北朝鮮という国は声を出して言っていたほうが安全を確保出来るんではないかなと思っています、このまま黙っているといつ殺されても不思議ではない、ただ声を出して、実名出してあげることによって彼らがそれをカードにしようとすると大事にされて生きてる可能性があると思いますよ、と言われました。我々も十九年間に近い、二十年に近い悶々とした気持ちをふっきるようにして家族会を結成し、その翌日に小渕外相に会ったんです。 小渕外相は非常にそのあなた方の気持ちはわかります。私にも子どもがいます。ですから皆さんの気持ちはよくわかります。そういうことはおっしゃってくれましたが、具体的にどうしようか、こうしようかという策はまったく持っていませんでした。そして最後に北朝鮮という国は非常に難しいからそこにいた北朝鮮問題の専門家である佐藤さんに、佐藤さんどうすればいいのかね、と。そういう方が日本の国の外務大臣、当時そうでした、その方が後に総理大臣になられたのです。こういう方、政界にいっぱいいらっしゃる。そういうことを我々家族の会、活動5年の間にひしひしと感じさせられました。怒りを持たされました。 一番の障害はやはり野中さんなんだと思います。1997年訪朝団?、訪朝団が行かれる時、森さんが団長だったと思いますが、我々家族会は二手に分かれて衆議院第一会館、第二会館、みんな回って、救う会から事前にファックス送って家族会の方がご挨拶に伺います、ですから出来れば部屋に入れていただきたいという趣旨のファックスを送っていました。我々が回ったところはほとんどの議員の方が対応していただきました。もしくは議員がいなければ秘書の方が部屋まで招き入れて我々の願い、我々の訴えを一応聞いていただきました。しかし、野中さんの所に行きましたらあの衆議院第一会館というのは非常に長い廊下なんです、冷たいコンクリートで、そこに我々家族、高齢の方を含めて6人ほどその廊下に立たせて部屋まで招き入れることなく秘書がその部屋の前に立ちふさがるように我々の訴えを聞いておりました。そして横田のお母さんがご自分の本を差し上げて、本当に私たちは哀しい思いで娘を探したいんですよろしくお願いします、とおっしゃっていました。ただ、それでも部屋の中に招き入れることはありませんでした。 その間95年から2000年まで日本政府は北朝鮮に対してどういう政策をとったのかというとやはり食料支援、それから経済支援をやってきただけなんです。我々が外務大臣、外務省に行き4年前からすでに我々は訴えておりました。何故制裁をしないのか、制裁を科して、期限付きの制裁を科して我々の家族を助けていただきたい、我々の国は軍隊を持ちません。武力を行使するわけにはいきません。しかし、一応、経済大国と言われてその経済力によってある程度の示威行為は出来ると思っておりましたので、北朝鮮に対して経済制裁それをやることによって我々の家族を取り戻してほしい、そういう思いをもって日本政府に、外務省にお願いをしてきました。そして河野外務大臣はいつもおっしゃってました、今外務省は硬軟取りそろえて北朝鮮と折衝しております、その間やってきたのは米支援だけでした。だから私は言ったんです。河野さん、日本政府はいつも硬軟取りそろえてると言ってますけども、いつも米支援の軟軟の支援だけで、一回も硬をやっていないじゃないですか。なぜ硬はやれないんですか。何故経済制裁やれないんですか、そういう風に言いました。そしたら,ちょうどアメリカはクリントン政権で融和政策、、金大中は太陽政策、そういう政策をとっておりましたので日本だけ突出してかの国に制裁するわけにはいかないというようなことをおっしゃってました。ただこの拉致問題は日本固有の問題であって(失礼、韓国にもあります。)ただ、日本人が日本の領土から他の国に連れ去られた、国家の主権を侵されて自国の国民を連れ去られて、そういう被害を被ってる、そういう問題、これは日本独自の問題、その問題において日本政府がアメリカの顔色をうかがい韓国との協調性を言い、解決しようとしない、そういう姿勢を見るにつけ、我々は怒りを覚えてきました。二十年間黙ってきた我々もいけなかったんでしょう、ただやはり怖かった、北朝鮮という国が非常に怖かった、だから言えなかった、しかし日本の政府は彼らを助けるために何か必ず動いてきてくれてるという風に信じてきた、それが5年前に会を結成して活動する上において日本の政府が彼らを助けるために何もやってきてこなかったということがわかったんです。 2000年の米支援の時に外務省の審議官が自民党の外交部会で説明していたそうです、これは西岡先生から聴いたんですが、家族が実名あげてこの問題を訴えるまで外務省は何もしてこなかった、と外務省の人間がそう言ってます。なぜ外務省がそれが出来なかったのでしょうか、どうしても外務省、日本政府の中に日朝国交正常化をしたい、そういう勢力があった、それはまぎれもない事実だと思います。その勢力がこの拉致問題、拉致された人々を見捨てて正常化を成功しよう、成功したい、そういう思いが非常にあったんだと思います。ですからこの拉致問題を押さえ込もうとして、こういう長い年月がたってしまいました。1991年、金丸さんが訪朝したときから謝罪外交、土下座外交と言われましたが、まず植民地支配の謝罪をしていました。その時の金丸さんについていったのが野中さんです。その路線をずっと引きずって今まで来てるんだと私は思っています。そして今年の9月17日になり小泉訪朝実現されました。 ただ、先ほども言ったように日本の政府の中に正常化をやりたい、拉致の問題片付けたい、拉致の問題を棚上げしたい、そういう勢力がいる中での官邸と外務省が画策した日朝首脳会談でしたから、我々が17日、特に私と蓮池さんが特にそうでした、17日の朝から嫌な気分、嫌な思いをもってたんです。ただ横田さんや有本さん、他の高齢の方々、やはり日朝首脳会談に大きな期待をかけておられました。特に有本さんは、この春からずっと生存情報がありましてあの日に有本さんが出てくるのではないかという情報が直前までありました。東京新聞が誤報で流したみたいですけども、あの誤報は我々も信じてたんです。我々もその9月17日、有本さんと石岡さん、それから松木さん、その3人を出してあとは知らない、拉致はない、そう言うだろうと思ってました。なぜかというとヨーロッパルートというのは非常に、えー、自分の意思で北朝鮮に入ったと言わせ易い、我々の場合は日本の領土から連れていったものですから、自分の意思でかの地にいると言うことはなかなかか考えにくい、ただヨーロッパルートの場合は、彼らの意思で北朝鮮に行き、北朝鮮で暮らしていると言わせ易い、そういうことで彼ら3人が出てきて、あとみんなわからない、まだ行方不明、という結果に終わる、そういう風に思ってました。しかし、日本政府はそれでも進展だと考えて平壌宣言に署名するのではないかと、そうすると国交正常化交渉が始まり3人がもし帰ってきて、皆さんがこの問題は終わったと、すべて終わったと、拉致問題は終わったと、じゃ、次は国交正常化だと、そういう方向に行くのではないかと、という非常な不安が9月17日の午前中、私たちは思ってました。 しかし、その午後になって飯倉公館、あそこに家族全員が集められてそのときに言われた言葉が皆さんの安否情報がつかめてます、ですから飯倉公館においでください。我々は記者会見を受けてましたが、それをすべて中止し、そういう事情だったら飯倉公館に行こうということで、飯倉公館に行きました。飯倉公館に行ったら植竹副大臣が我々を出迎えてくれ、そしてホールに集めて、今、ご家族全員の安否情報がもたらされました、大事なことですので、確認のうえにも確認をして、間違いのないようにお知らせしたいので、しばらくお待ちください。そういう風に言われて1時間待たされました。その間、我々は非常な不安が心の中にもたげてました。1時間という長い時間、みなさんあまり会話もされず、生きているのか死んでいるのか、どうなんだろう、そういう思いで待っていたんだろうと思います。そこにテレビがありまして、それはNHKの拉致報道をやっておりました。そして横田さんが最初に呼ばれました、みんなでどういう順番なんだろう、そういうことを考えて、私も姉と、どういう順番なんだろうと言って待ってました。そしたらテレビで先に9人生存、これは誤報でしたけども、そういう報が流れて、9人、じゃ11人のうち9人が生きている確率が高い、絶対生きてるな、そういう思いでテレビを見てました。しかし、すぐその数分後に数人という風に訂正があり、それから我々への呼び出しがかかったんです。 我々は増本家と市川家両方一緒に呼ばれまして飯倉公館の別室の方に行きました。福田さんが立っておられました。非常に神妙な顔でルミ子さんはお亡くなりになられたということです。たしかそういう言葉だったと思います。頭の中は真っ白になりました。何も言えなくなりました。でも、気丈な姉が「いつ、どこで」という風に聞いたんですが、福田さんは「わかりません、何もわかりません」。私がどうやって死んだすか、「わかりません」そういう答えしか返ってこなかったんです。1時間以上待たせて、確認の上にも確認をしています、という言葉を我々に投げかけた外務省の植竹副大臣の言葉を我々は信じていたんですけどね、そしたら福田さんはわかりません、わかりません、じゃ、なんのための確認の1時間だったのか。非常に怒りを覚え、驚きました。そんな情報を我々が信じるわけにはいきません。ただ、死亡というそういう宣告は私たちの心の中には非常に重くのしかかってきました。それから皆さんの待ってるホールに行きましたが、そこにも横田ご家族と有本さんご夫婦、そして我々家族がいました。しかし、お互いに一言も声を発することが出来ませんでした。お互いの家族がなくなっているというのを聞かされてましたから。私もその中で親父やお袋にどうやって言おうかとそういうことを頭の中で考えていました。信じたくない、信じていないという思いもありながら、やはりその官房長官の死亡という宣告は、私の心に非常に重くのしかかったんです。やはり信じざるをえないのかな、そういう葛藤の中で親父にどう言おう、そういう気持ちでホールにいました。 そこへ生存していたご家族が入ってこられて、そこで彼らの方が大きな声で泣いているんです。目を真っ赤にしながら泣いているんです。それまでその部屋に待ってた死亡とされた家族、その人たちは誰も涙を見せず、ただ鎮痛な顔をしてた、それだけだったんですが、生存とされた方たちが一緒に入って来られた、それで皆さんが非常に泣いておられる、そして我々に対して、激励の言葉を投げかけられて。また生きている、信じちゃいけない、そういう言葉を投げかけられました。蓮池はついさんは、ごめんなさい、そういう風に横田サキエさんにおっしゃってました。横田早紀江さんは、よかったね、という風なことばを投げかけていらっしゃいました。そこで皆さん、死亡とされた方たちも涙を流されないていました。しかし、18日になりまして、私はもう親父の方に帰らなくてはならなかったので、帰ったんですが、その夕方、蓮池さんと横田ご夫妻、それから横田さんの弟さん、彼らが外務省に行き、北朝鮮で生存者に会ったという梅本公使(臨時で北朝鮮に入って安否の確認をなさったそうですが)、彼に直接会う機会を得られて蓮池さんが、どういう確認をしたんだ、と。我々家族の顔も知らないでどういう確認をしたんですか、そしたら梅本さんは、いえ、まだ確認したとは言ってません、ただ合ったと言っただけで、確認したとは言ってません。そういう風におっしゃったそうです。じゃぁ、誰が北朝鮮から日本に死亡、生存の確認を言ったんだ、それはわからない。北東アジア課の平松さんにもそう尋ねたそうです。いや、あの時、ごたごたしておりまして、誰が責任者で、誰が責任を持って日本に伝えたのかよくわかりません。そんな馬鹿な話が通じるのか。で、家族会としたは怒りをあの日に、横田さんご夫妻、蓮池さん、お三方で記者会見を開いて、怒りを表明したんです。そしてその翌朝ですかね、朝日新聞にリークされた死亡年月日を見て、これがリークされたとたんに外務省の言い訳が始まりました。最初の言い訳はその出された書類が非公式なものであるから、ですから死亡年月日はお伝えしなかったと、じゃぁ、公式の文書は何なんだと言うと、それはきたちょうせn赤十字から日本赤十字に送られたファックスによるものです。文書であります。それが届いたのが、5時過ぎなんですが、それ以前にすでに日本政府は我々に対して正式に死亡です、生存ですということをおっしゃっている。結局、田中均さん、1年間の努力でここまできたんでしょうけれども、彼の頭の中にあったのは日朝国交正常化交渉の再開、そしてこの拉致問題の集結、そsれしかなかた。北朝鮮政府もおなじように、この拉致問題が終結しないと、日朝交渉が再開しない、だから、非常なことではあるけれども、5人生存、8人死亡でそれでいってしまおう、そういうことでやったんだと思います。恐らく日本人というのは、のど元過ぎれば暑さを忘れる、熱しやすく冷めやすい、そういうことも考えてやったんではないかと思うんです。日本政府の思惑、外務省の思惑と北朝鮮の思惑が合致してこの日朝首脳会談が開催されてそして平壌宣言にサインがなされた、先ほどの署名式、我々も第一議員会館で見ておりました。なぜ僕らはあのようなものに署名するのか、あの平壌宣言というのは日朝首脳会談が再開される1ヶ月ほど前に作られたものらしいです。あの平壌宣言の中には日本の植民地支配に対する謝罪、それから経済支援をうたっています。しかし、この拉致問題に対する金正日の謝罪はまったく書いておりません。この問題で小泉さんが本とに非常なものだと考えたら、もう少し時間を延ばしてでも平壌宣言の中身を替えて拉致という言葉を入れて謝罪を公式にさせるのであったら、まだ署名は許されるでしょう。ただ、1ヶ月ほど前にかかれたそういう宣言にあの事態で署名されたというその報道を見て手、我々は残念で、どうしてという思いでいっぱいでした。 そして、また日本政府の構造、この拉致問題ではなくて国防の問題でもそうです。あのころ、海上保安庁は不審船、 1970年代後半、不審船をとらえていたそうです。ただ海上保安庁は、海上保安庁の資料としてとっておいて、警察庁は警察超の資料、自衛隊は自衛隊の資料、それぞれが持つだけでした。それから何の検証もしていない。もし宇質事件、これは久米裕さんの事件ですが、1977年、・・・未遂事件、この時在日の協力者が捕まっております。このことが公になっていればそれからの一連の被害、半分で済んだかもしれない、公安が各県警に注意を呼びかけていれば、そして不審船が来たことを海上保安庁、自衛隊が県警に知らせていれば、警戒を厳しくしてその後の拉致、海岸からの拉致、半分くらいで終わったんではないかと、そういう思いがしておりますので、今の日本の縦割りの行政、横の連絡がなくてただ単に資料だけを持って何の解決にもならない、そんな体制への疑問もわいてます。それでいいのか、日本という国はそれでいいのか。ということです。先日、拉致議連でやはり海上保安庁、警察庁、公安庁の方々がおいでになって、そして議連の先生型から資料の提出を求められました。ただ、1978年の海上保安庁の資料はどこかにいったか今わかりません、そういうことでした。公安調査庁、総連に対する捜査はどうなっている?順調に進んでおりますが、今申し上げることは出来ません。そういうことばっかりで、そういう姿勢がこの拉致問題の解決を遅らせてきたんだと私たちは実感しております。 今、またテレビ報道、マスコミの方々が北朝鮮という国を検証するようになっています。皆さん、ほとんど北朝鮮という国をご存じなかったと思います。私もはっきり言ってそんなに詳しいわけではなかった。ただ5年前に家族会結成してから救う会の佐藤先生や西岡先生、荒木先生、彼らの講義を聴くようになり色々なことを知るようになりました。まず北朝鮮という国、この国の大きな問題は、かの国が金日成を中心とした全体主義である、かの国の唯一思想体系、これが1974年、北朝鮮労働党が採決決定したものですが、これを金日成主義と言います。この中身が非常に問題なんです。まず10箇条からなってまして、偉大な首領金日成同士、かならずこれで始まっております。まず一つ、全社会を進化するために命を捧げて行動する、しなければならない。偉大な首領金日成同士を忠誠をもって仰ぎ奉らなくてはならない、偉大な首領金日成同士の権威を絶対化しなくてはならない、偉大な首領金日成同士の革命思想を信念とし、首領の教授を信条としなくてはならない・・・・この10箇条なんですが、ここに書かれてあるのは人民のための金日成ではなくて、金日成のためにある人民だと言うことです。今、この金日成を金正日に置き換えると今の北朝鮮と言えます。つまり忠誠、ひたすら首領のために生きて青春も命も喜んで捧げる、そして金正日のために生きなければその人の命は人間以下の命と見なされる。そういうことをこの10箇条は言っているんです。これは高沢皓司さんという方が書いた「宿命」という本の中に書いてありますが。こういう国で自由な意思などあり得ません。そして密告制度を作っておりますので、ちょっと反動的なことをするとすぐ密告されて収容所送りになります。もしくは処刑されます。そういう国で彼らの自由な意思の発言は出来ません。 中島梓さんが言っておられましたが24年間あの人たちはあの国で暮らしてきたその実績がある、だからそれを無視しちゃいけない、そういう馬鹿なことを言うひとがやはりまだいらっしゃるんですが、北朝鮮という国を知る、知って頂きたい、あの国でどういうことが行われ、どういう生活を強いられてきたのか、それを知っていたならああいうことは言えない。今、日本の有識者の中にも5人を戻した方がいいんではないか、そういうことをおっしゃる方がちらほら出てきております。ただ今、かえってこられてる5人の方は非常にあの国に帰ったらどうなるかわからない、そういう不安を今現在抱えていらっしゃいます。そういう人たちを外交交渉ととらえて5人を約束だから戻せという、そういうのがありですか。最初、北朝鮮は、本人の意思を尊重する、本人の意思を尊重して返す、そういうことを言ってました。そして子どもたちも一緒に帰ったらどうだと言ってたと、これは本当かどうかわかりませんが、もし北朝鮮が言うように本人の意思を尊重するのであれば今、日本にいる5人の意思を尊重してもらわなければ困る。彼らは日本に来て自由な意思で今、日本にとどまることを決意している、それをなぜ同じ日本の方がわかっていただけないのか、なぜ5人を戻せと、一応戻すべきだと、なぜ言うのかよくわからない。これは、拉致というのは、犯罪なんです。外交交渉で解決するというそういう問題でも私はないと思うんです。これは拉致というのは犯罪なんです。ですから犯人にその人質を帰せ、とそういう言葉しか出てこないはずなんです。いったん子どもを帰して家族を返してそれから話し合ってその君たちのその保護のもとで話し合ってこちらに帰るようだったら、かえしてちょうだい。そんな馬鹿な話がありますか。北朝鮮という国は先ほど言ったように自分の意思をもてない国なんです。そんな国に返してそこで彼らの意思を言えと言ってもとても無理だと思います。それだったら、ただ皆さんご存じのように比較的自由な日本で彼らの子どもを連れてきてそして日本で話し合っていただいて、そしてその意思を決定してもらう。それが一番だと思います。 |