曾我ミヨシさんを救出する佐渡島民大集会

●日時:10月25日午後13:30より
●場所:アミューズメント佐渡(佐渡中央文化会館)収容1300名
    新潟県佐渡郡佐和田町大字中原234−1
●共催:佐渡島民大集会集会実行委員会
    曾我さん母娘を救う会
    北朝鮮による拉致被害者家族連絡会
    救う会全国協議会

 

【曽我ひとみさんの挨拶全文】

 きょうはお忙しいなか、こんなにたくさんの島民の皆様にお集まりいただきまして本当にありがとうございます。
 日本に帰ってきてこの一年間、私の母親代わりになって、また私の兄代わりになって、温かく励ましてくださった皆様、この温かさのなかで一年暮らすことができました。いま私は、ありがたさで胸が一杯です。心より感謝しております。
 母は、ただただ苦労のなかで私と妹を一生懸命育ててくれました。家が貧しく、いろいろな苦労をしながらも私たち姉妹を温かく、ここまで育ててくれました。
 ごく普通の家庭でした。春になると、学校では、遠足に出かけました。何もないなか、母は遠足のために、お寿司やおいしいお弁当を作ってくれました。その頃は私も小さかったので、こんなにおいしいお弁当をいつも食べられたらいいなと無邪気に思っておりました。
 多分私が小学校の五年生ぐらいの時だったと思います。ちょうど八月の十五日に私たちの部落では毎年盆踊りが開かれておりました。私が前年まで着ていた浴衣が古くなったので今年の盆踊りには新しい浴衣を作ってくれと母にねだりました。その時、母は作ってあげるとか、買ってきてあげるとか、そういうことは一言も言いませんでした。そして盆踊りの前の日でした。私が夜寝ている間に夜なべをして新しい浴衣を縫ってくれました。私は次の日に浴衣を見て、盆踊りだから新しい浴衣を着て行けるんだと、ただ喜ぶだけでした。
 やはり私が小学五年の時のことだったと思います。NHK の合唱コンクールに出場する私のために、家が貧しいのに買ってくれた水色のワンピースのことが、今でも心の中に残っております。
 その合唱コンクールが終わって船で佐渡に向かっておりました。そのコンクールの様子がテレビで放送されることになっていて、一緒にコンクールに行った友達たちはみんな家に電話をして、「何時からテレビに出るからね、忘れないで見てね」と楽しそうに話をしていました。だけど、その時、私の母は働いていましたし、私の家には電話がありませんでした。母の買ってくれたこのワンピースを着て歌っている姿を母に一目でいいから見せてあげたいと心の中で思っていました。でも、その夢はかないませんでした。

 中学校の三年生ももうすぐ終わろうとしていた時です。友達はみんな、どこの高校に行こうかという話をし、いろいろこれから先の進路を決めなくてはいけない、そういう大事な時期でした。私のその頃の本当の夢は、保育士になることでした。小さい子供たちが大好きだったからです。でも保育士になるとすれば、高校も行かなくてはいけないし、まだその先もいろいろと勉強することもあるだろうし、きっとお金もかかるだろうと思いました。そこで、先生から、佐渡病院の学院で二年間勉強して、その間に夜間高校に四年開通えば高校も卒業できるという話を聞かされました。
 昼間は学院で勉強して夜も高校に通うのは、もちろん私にとっては大変なことでした。しかし、母は言いました。「なにか手に職をつけたほうがいいから」と。この母の勧めもあり、なにか手に職をつければこれから家族の生活も少しはよくなるのではないかと思いながら学院に入りました。
 学院に入って何カ月か経った戴帽式の日でした。母が仕事を休んで来てくれました。その時、こんなに喜んだ母の顔を見たのはもうどのくらい前だっただろうと思いました。母は、「ひとみにはいい看護婦さんになってほしい」と近所の人にも話していたということです。
 そんななか、ある日、お母さんのお弁当の中身を見ました。ご飯と梅干し一つ、それと辛い辛い朝鮮漬けが入っておりました。私は母に尋ねました。「こんなに辛いものをどうして食べるの」と。そうすると母は、「辛いからご飯もたくさん食べられるし、ほかのおかずもいらないんだよ」と笑いながら話してくれました。
 お母さんは仕事ばかりしていて、仕事から帰ってくると、夜は毎晩毎晩ザルを編んで内職をしながら私たち姉妹を育ててくれました。私はいま、この年になって、その時の母の気持ちが理解できるようになりました。しかし、ようやく理解して、いままでできなかった親孝行をしようと思っても、今の私にはそれができません。
 いまお話ししたようなことは、今日こちらにお集まりになった皆様方も毎日毎日経験されていることだと思います。だけど、その平凡で普通のことが、いまの私にはできません。そういうことを考えると、一時間でも、三十分でも、母に何かをしてあげたいという気持ちで一杯になります。

 二十五年前の八月十二日という日も、私にとっても母にとってもごく普通の日でした。ちょうど土曜日で夕方家に帰っていました。少しすると母も仕事から帰ってきて、この一週間の病院での出来事などを話しながら過ごしました。またちょうど八月十三日は町のほうでは朝五時から朝市が開かれ、お盆のお墓参りに行く支度もあって町は大変忙しい時でした。母も赤飯を炊く準備をしていました。
 多分夜の七時半ぐらいだったと思います。私と母は一緒に近所のお店に買い物に出かけました。近くにあるお店だったので、二人とも普段着のままで出かけました。
 買い物を終えて母と楽しく話をしながら歩いていました。少し歩くと、なにか後ろに人の気配を感じて振り向いてみました。三人の男が横並びになって私と母の後ろをついてきていました。母と二人で、「一体あの人たちは誰なんだろう」と話しながらも、まさかそのあとで、あんなことが起きるとは二人とも夢にも思っていませんでした。突然、男たちが後ろから急に走ってきて、道の横にある木の下に私と母は連れ込まれました。そして口を塞がれ、手足を縛られ、袋に入れられました。そのまま担がれて、小さな船のあるところまで行きました。殴られることはありませんでした。
 その小さな船では、袋の中から、すぐ近くで日本語を話している女性の声が聞こえました。しかし日本人が話すような日本語の言葉遣いではなく、どこかおかしいなと思う、そんな日本語で話していました。
 北朝鮮に着いてから私は母のことについて尋ねました。ある人は、「お母さんは日本にいる。そのまま暮らしているよ」と言いました。「お母さんには、娘は勉強しに行ったと言ってある」。そういうふうに言う人もいました。その後、母のことについてはなにも見ることも、聞くことも、話を聞くこともありませんでした。北朝鮮にいるとか、連れて来られたということは聞いていません。

 横田めぐみさんと初めて会った時には、私にまた妹ができたように思いました。めぐみさんも私のことを「お姉さん」と呼んでくれました。
 めぐみさんは自分の家族について話をしてくれました。広島に住んでいるお祖母さんのことや原爆の話、お父さんはすごくやさしくて会社に勤めていること。「私には双子の弟がいるんだ」と、とても嬉しそうに自慢しながら話してくれました。そして、それぞれのお母さんの話になりました。めぐみさんが、「私のお母さんはね、いっつも香水をつけていて、とってもいいにおいがするんだよね」と話しました。その時、私は、めぐみさんのお母さんとは全然違う私の母のことを言おうかどうしようかと少し迷っていました。毎日工場に通って、帰ってくれば油のにおいしかしない母だったからです。でも、私にとってはこの母の油のにおいが今でも忘れられません。

 母が消息不明であることは、昨年九月二十九日に日本政府の調査団に会ったときに開きました。それでも、日本に着いて飛行機を降りた時から、「何日かすれば母についての情報を知ることができる、その情報を聞きたい」「一緒にいなくなって、私はこうして日本に帰ってきたのに、一体母はどこにいるのだろう」ということばかり考えていました。
 十一月に国連人権委員会に母について書面を提出することになっています。これからも、母の救出のために、そしてまだ見つかっていない人たちの救出のために頑張りたいと思っています。
 佐渡島民の皆様、そして日本中の皆様、今日ここにお集まりの皆様方に心より感謝しております。今日はこの大会のためにたくさんの方々ご参加の上で、私の母の救出運動と同時にまだ見つかっていない方々の救出のために今日のこの時聞が何かの役に立てばと思い、大変嬉しく思っております。
 長い間活動をなさってきてくださった家族会、救う会の方々の大きな努力があったからこそ一年前に私は帰ってくることができました。心より感謝しております。
 まだはっきりとした消息がわからない日本の方々のことを考えると、大変心が痛いです。今日まで一年、兄、弟、姉、妹を待ち続けていらっしゃるご家族の気持ちは私も同じです。拉致問題を解決するまでどれくらい時間がかかるかわかりません。これまで以上に日本の方々が一つの大きな輪になつて、この問題解決のためにより一層お力をお借りしたいと思っております。
 もし自分の娘が、もし自分の母が、こういうふうになったらと、もう一度深くお考えください。そして心を一つにして私たち被害者と共に一歩一歩歩んで行っていただきたいと思っております。
 今日はお忙しいなかこのようにお集まりいただきまして本当にありがとうございました。

(新潟県佐和田町・アミューズメント佐渡にて)

 

 

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